「同労者」第5号(2000年2月)   編集後記に進む  本・讃美歌の紹介に戻る 目次に戻る

やぶにらみ論壇

− "何 か を 得 る " −

 先日のテレビの取材番組で、脱サラしてある仕事をはじめたおっさんが取り上げられてい
た。白髪もぼちぼち見える、ほどほどの年輩の人であった。そのおっさんが話した一言に「何
かを得られれば、と思って…」とあった。"中学生のクラブ活動でもあるまいに。"と、気になっ
た。
 この「何かを得る」と言う言葉を、実に頻繁に聞く。最も多いのはクラブ活動の目的として使用
される場合であるかも知れない。これをやって「何かをつかみ取ってください。」と、学校の先生
も堂々と言う。同じことが、高校でも大学でも繰り返される。野球だ、サッカーだ、ゴルフだ、山
だ、ダンスだ、…とサークル活動をやっている本人達もいう。俺はこれをやって「何かをつかみ
たい。」と。
 プロのスポーツの世界でさえも、このスポーツを通して「何かを得る」と、同じ言葉を言う人も
頻繁である。山に登って「何かを得る。」つもりなのである。しかしそれが何であるか説明できな
い。
 学校の選択についてもそうである。その学校に行って、何かをつかめれば…、といって学校
を選んでいく。
 だが、よく考えてみよ。「何か」とは何だ。
 列車の駅に行って、「どこかに行く切符を下さい。」と言っているようなものではないか。
 なぜ「何か」が流行るのか。それは自分がどこに行ったらよいか分からないのである。「何か
を得て下さい。」という先生は、「何を」得させなければならないのか、本人が知らないことが多
そうである。
 それで済むところが、日本人的であるのかも知れない。"家に来てくれ。"というやりとりに、
「どうぞお越しください。」「そのうち参ります。」、ということになる。「そのうち」とは一体いつのこ
とか? そのうち行くのか、実は当分行かないということか区別がつかない。
 パウロがアテネに行ったとき、「知られざる神に」と書かれた祭壇をみつけた。これは、哲学
で有名をはせたギリシャ人も、こと宗教に関しては「何か」で済んでいることを示す。
 しかし福音の世界は、「何か」では済まない。「救い」は、「何か幸いなもの」と言うようなもので
はない。何か知らないが、教会に行っていたら天国に行かれた、というようなことはないのだ。
 福音に生きる者は、この世の生活についても、「何か」では済まさず、何を行い、何を目的と
するのか、それによって何を得るのか、はっきりさせることが大切である。それがあなたの宗
教に対する姿勢に、影響を及ぼすからである。


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