「同労者」第10号(2000年7月)                        目次に戻る

証 詞
祖母、菅野みさをの救い

仙台聖泉キリスト教会  婦人伝道師 山本 盡子

 祖母、菅野みさをは84歳で救われました。それは母、咲子が天に召される半年前でした。
 私の祖母との思い出はたくさんありますが、私の記憶の中で一番古いのは、多分私が5歳く
らいのとき、母は二人の兄と夏季聖会に行き、私は祖父母に預けられました。ちょうど今の私
の娘と同じ歳ですが、祖父母の家にはしょっちゅう泊まりに行っていましたので、あまり置いて
行かれたという意識はなかったと思います。ただ、きっと寂しい思いをしさせないように私を愛
してくれていた祖父母があったのでしょう。夜になると昔話をしてくれました。私はそれがとても
好きでした。
『あるところに一人の女の子がいて、夜になると兄弟と一緒に薪で沸かした木のお風呂に入っ
たとさ。しばらくするとお兄ちゃんが言うんだな。「おい、軒にぶら下がってる干し柿、1つとって
こい。」その女の子はしぶしぶ裸のままお風呂場から抜け出して、はだしで軒の下に行くと、干
し柿を1つつかむんだ。そして思いっきり引っ張る。するとその横にある柿がぼたっと落ちる。
慌てて拾い上げて、また1つ引っ張る。するとまた違う柿が落ちる。あたふたとやっているうち
に「誰かいるのがぁ」と家の中から声がする。逃げるように風呂に持ち帰ってみんなで食べて何
食わぬ顔をして出て来たそうだ。しかし、次の朝決まってお父さんにしかられた。「誰だ、ゆん
べ風呂で柿食ったのは。」柿の種を釜の脇に全部置き忘れてたからなんだな。』
こんな話はまだまだ山ほどあります。面白おかしく話してくれる祖母でした。実は、それらの話
の主人公は決まって私の母でした。時は移り今でも我が家の風呂釜の上にりんごの芯が置き
忘れられています。『誰、昨日お風呂でりんご食べたのは。』と私が聞くと、決まって『すみませ
―ん。』との声が返ってきます。義父と娘のものでした。
 もう1つの昔話は、『ある日、一人の娘が仏壇の前に座りボーっとしていたかと思うと突然立
ち上がって家を出て行った。家の者たちはとても心配していたが、夜になるとその娘は晴々と
した顔で帰ってきた。喜びに満たされたその顔は輝いていた。彼女に何が起こったのだろうと
皆は思った。誰かが尋ねようとしたその時、娘は自分にもたらされたイエス・キリストの愛と救
いを満面の笑みと共に話し始めた。それはついさっきまで仏壇の前に座り込んでいた娘の顔と
は思えないほどの輝きだった。それからさほど経たずに娘は結婚し花屋になった。忙しい中に
も3人の子供が与えられ一生懸命、神を愛し家族を愛したそうだ。』
 祖母は、そんな話をしながらその時、自らの娘にもたらされたすばらしい救いと新しい生涯を
信じました。娘である私の母もおりあるごとにキリストの愛と救いを語り続けました。数十年もた
って祖母は娘の説得に素直に答えました。娘にもたらされた愛と救いが自らのものであること
を信じました。神を受け入れキリストの十字架を信じました。私には最高に見えていた祖母が
克服できなかったお嫁さんとの確執も、その日以来彼女を悩まし悲しい姿を見せる障害にはな
らなくなっていました。何より、愛する娘を先に天に送らなければならいという大いなる試練に
あっても、全ては主の御手の中にあることを確信して疑わなかった祖母をその真実から引き離
すものではありませんでした。
母の死の3ヶ月後、祖母も入院しました。私の結婚式には出られませんでしたが病院に訪れる
人に「これ私の孫。この間結婚してね。いい娘でしょ。」と言っていました。肉が食べたいと言う
ので、近くのデパートで高いのを買ってやわらかく煮て持っていきました。一口食べると「あー美
味かった。ありがとね。」と言って残りは決まって「かのう君食べな。美味いから」と主人に手渡
すのでした。慰めに訪問しているのに、そんな輝いた祖母にはげまされて帰ってきました。
それから約1年、自らも天に召される時が来るまで、確かに信じゆだねた神の御許、愛する娘
と同じところに逝く事を残る者たちに明らかに証する祖母の信仰者生涯がありました。葬儀は
仏式でしたが、彼女の最後の2年を知っている人は彼女が確かに神を信じ御許に召されたこと
を証言しました。
「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まこと
に、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42) 



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