ひとときの休みを賜り独りきて
潮騒耳に湯ぶねにつかる
定まりし時は来たれど人はなく
祈会待つ身の心は重し
一人また二人三人集いきて
終わりは十五の祈会となりぬ
劇を見る園児の椅子に座す我を
見つけて孫はしきりに手をふる
春日さす舗装を終えし黒き道
ほそきラインの白さ目に沁む
百万人の福音の投書欄には、いろいろな意見が載っている。
「こんな最低の雑誌を買って損をした。これでも伝道用か!もう今度からは取りません。編集
室、辞職せよ!」「もう苦情を言わないで済むように購読を止めた。若者を育てるためでも老人 を育てるためでもなく、ただ福音がストレートに語られることを期待する。長々と言い訳けする のは、およしなさい。」(二月号)
「二月号に最低の雑誌!との声がトップに載せてあり、悲しいやら、がっかりやら、怒りが込み
上がるやら。あんな失礼な意見と編集部は戦ってほしい。現在の百万人の福音は昔同様、十 分伝道用だと私は思う。」「毎月読んでいます。私にとっては無いと困る心安らぐ雑誌です。」 (七月号)
多分、前二者は信仰歴ある年配者であり、後二者は若い人、女性ではないかと思う。人は
様々な意見、見方があることが分かる。牧師中心の会合でも格調があるとして文語体聖書と 従来の賛美歌派と若者受けする歌詞のニューソング派との論争がある。その他、集会時間、 形態、服装、座席位置、謹言重厚派と楽しい自由とリラックス派などなど。年令や経験、信仰 歴や性格などの違いから避けられない事ではあるが、自説に固執せず他の意見にも耳を傾け る心の余裕が必要なのではなかろうか。(無思想でも迎合でもなく。)
その上でパウロの言う「わが福音」という動かせない、動かしてはならないものがある。それ
は主がその人に与えた使命、メッセージでもある。ただその現し方に柔和と謙譲の香りの必要 なことは言うまでもない。 |