「同労者」第10号(2000年7月)                            目次に戻る

聖書講義

昨日のサムエル記(その9)

仙台聖泉キリスト教会 牧師 山本嘉納

 現代の私たちの生活を下支えしている力は、何なのだろうと考えてみた。クリスチャンである
ことはその答えとして神を持っているが生活そのものはそれを明らかにしていない。難しい物
言いなので言い換えると、今の私たちは果たして信仰で日常の厳しい戦いを乗り越えているか
どうかということである。人間の欲望が原動力として働いている時、それに太刀打ちできる力は
どこにあるのだろうか。一歳半の私の娘がその良い例である。彼女は今、欲望の塊である。最
近覚えたマクドナルドのポテトの味のせいで店の前を通る度に購入することを訴える。その方
法は色々である。自力で歩いていれば勝手につないだ手を解き店の中に入っていく。乳母車
や自転車に乗っている時は立ち上がったり無理を承知で降りようともする。「だめ」という言葉
に、「あっち(あっちへ行けと言う意味)」という覚えたての言葉と指差して対抗してくる。こんな時
は大勢の通行人の応援も手伝って強気である。「あら、かわいい」という娘に対する言葉もこの
時ばかりは無責任な部外者のそれに聞こえる。こちらの最後通告としての「NO」に対しては大
声で泣き喚き地団駄を踏んで怒りをあらわにする。罪人である。こちらにそれでも「NO」である
という確固たる意思がないと簡単に崩れていく親の正義がある。昔は「それを買うお金が家に
はありません。」と言う切り札があったが、今それを言っても嘘つきのそしりを逆に受けてしま
う。
 神がサウル王とイスラエルに命じたアマレク人の聖絶は、そこに神の義と聖が表されなけれ
ばならないにもかかわらず、彼らがとった行動は彼らの醜い心を明らかにした。彼らは神の働
きを、欲望としてなしてしまったのである。彼らが神を礼拝するために残したものはよい物であ
ったが神を喜ばすことはできなかった。まず自分を喜ばせ、次に神に喜んでいただこうと言う
のは本末転倒の自称、神の民の信仰生活である。この事件を持ってサウル王に対する神の
忍耐は終わりを告げた。悔い改めの機会もあったがサウル王のそれは真心からのものではな
く無理解と取り繕いのその場しのぎのものであった。「サウルは言った。『私は罪を犯しました。
しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私と
いっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。』」(サムエルT15:30)。前回サウル王の
失脚の元凶に触れたが、彼はイスラエルの神、主の前にへりくだって仕える事を好まず、自ら
が王として君臨することのできるイスラエルの民を選んだ。お飾りとしての神信仰、苦しい時に
のみ登場してもらおうとする神をサウル王は願ったのである。この考えはこの時代のイスラエ
ル以外の諸国が持っていた考え、価値観であった。「サムエルはサウルに言った。『私はあな
たといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位
から退けたからです。』」(同15:26)。この問題の解決がなされないままにサウルという人格は
一人歩きを始める。今後の数々の事件は、神に仕えて生きる王としての彼ではなく、欲望を全
ての事柄の動機とする恐ろしい権力者になってしまうのである。彼に代わるものが選ばれなけ
ればならなかった。神の民の真の王である。聖書に通じていない人でもこの次が誰であるかを
知っている。神のサウル王への仕打ちは、彼に変わって王になるものが彼の友であることとそ
の者がひたひたと彼の王位を脅かしていく中を生きなければならないことであった。それは王
の自尊心を傷つけ彼にもう一度立ち返るチャンスを与える神の働きかけであった。

 重苦しい空気を取り除く方法として新しい空気を取り入れてみよう。人間である以上、完璧と
いう言葉はあたらないが、結構私たちはそれを使っている。デートの前に念入りにその準備を
して鏡に写った自分を見て一言「完璧」。それでも足らずに待ち合わせの場所に向かう途中、
ショーウインドーのガラスに映る自分に向かって一言「完璧」。現実にそうであるというよりは、
そう言い聞かせている面の方が大きいように思う。神がサウル王を退け選んだ人物ダビデは、
結果的にサウルの代わりになりえたのであろうか。完璧ではないにしろ神の願いにかなう人物
だったのだろうか。
 聖書を代表する聖徒の中にあってダビデについての生まれや幼少の記録が無いのは異例
の感がする。彼についての記録の多さは旧約聖書ではモーセに次ぐものであるし同時にそれ
は彼が神と人とに愛された証拠でもある。しかし、その登場はサムエルからの油注ぎが最初で
ある。それは、あえて聖書がその立場としてダビデの選びが神によってなされたこと、ルツ記に
書かれている系図が表すように神の摂理はすでに推し進められたことなどを総合して省かれ
た感がする。別な見方もできる。ダビデ自体が、その時代の情報を他に発表しなかったという
ことである。彼はベツレヘムで代々農家をしていたユダ部族エッサイの8番目の息子であっ
た。彼の曾お祖父さんにあたるボアズは裕福な人物であったように書かれているがそれが変
わらず代々続いているとは限らない。手がかりはサムエル記Tの16章20節に「それでエッサ
イは、一オメルのパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を取り、息子ダビデに託して、これ
をサウルに送った。」とある。同17章17、18節にも同じように贈り物が書いてあるが大変質
素なものである。信仰深く確かな家系の人物、エッサイであったがそれはイコール、経済的に
豊かな家柄を保証するものではなかった。同時に決して楽でないし危険の伴う羊飼いの仕事
を末息子であるダビデに託さなければならなかった父親の実情など勘案してもその生活には
自慢しないまでも語れる豊かさは無かったに違いない。しかし、ダビデにとって辛く危険な羊飼
いの仕事は彼の生涯に大きな役割を果たすこととなった。何よりも大切だったことは、彼の信
仰に「エホバの神、主がイスラエルの牧者である」ことが明らになったのである。
替わってサムエルはサウルの失脚を受け入れることができないまま神に導かれて、ダビデに
油注ぐためにベツレヘムにやって来た。彼の生涯もまたイスラエルの預言者、教師として決し
て楽なものではなかった。特に年老いてからの働きは困難なものであった。しかし、最後まで
私たち人間を導いて下さる神は偉大な預言者に対してもその手を緩めず導き教え続けてい
る。サムエル記Tの16章7節には「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高
さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを
見るが、主は心を見る。』」と変わらぬご自身の真実を持って臨んで下さる。「もし、私たちが自
分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私た
ちをきよめてくださいます。」(ヨハネT1:9)。私たちを探り究める神は、その愛と真を持って私た
ちの罪深さを変えようとして下さる。自らの罪深さ、弱さを知る私たちは、その困難に真っ先に
降伏して敵の手に陥ってしまうものである。しかし、神はその困難な道のりを聖霊なる神を持っ
て導き変えようとして下さる。どこまでか。全ての悪から私たちをきよめるまでである。へりくだ
って神の手に陥るものに神の哀れみは豊かである。
 

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