「同労者」第10号(2000年7月)                            目次に戻る 

論  説
 ― 聖書で論じる習慣をつけよう ―

 「ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみ
ことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)


 子どもは、小さいときには親が言うことを正しいとして生きることが大切です。
 信者は、牧師の言うことを正しいとして生きることが大切です。殊に若いときにはそうです。人
によってその時期が異なりますが、いずれは牧師も信徒の行動に一々意見を言わなくなりま
す。それはその人が自分の信仰で歩むことを求めるからです。
 私たちが何かことを論じるとき、基準となるものが必要です。
 私は信徒部会における議論を想定して述べているのですが、十人十色、人が集まれば意見
が合わない事態は当然発生します。問題なのは、一家族や一教会の中のことであったら、権
威者がいて"右向け右"と号令をかけて議論終わり、ということもあるでしょうが、たくさんの教
会から出てきた人々が、意見が合わなかったら収拾がつかなくなります。
 信徒会は信仰と関係ないことに走ったら、会を結成する意味はありません。会の趣旨からい
って、信仰に関することが対象になりますから、聖書にその基準を求めるべきです。
 頭では分かっても、実行できないのが私たちの常の姿です。聖書によって論じることができる
よう、日頃の訓練が必要なのです。私たち、聖泉連合は、聖書信仰とアルミニアン・ウェスレア
ンの信仰に立つとその規約にうたっています。看板の聖書信仰は、"真理、行動の全ての基準
は聖書にある"とするのです。
 私たちの間で意見が分かれたとき、ベレヤのユダヤ人たちがパウロの説教の真偽を知るた
めに聖書を調べたように、聖書を調べることをしないなら、「羊頭狗肉」であって、看板倒れも
甚だしいと言わなければなりません。
 「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみこ
とばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結
びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)
 みことばが実際生活に結びつけられるには、訓練が必要です。そう思って、心掛け続けなけ
ればけっして実際の生活に結びつくものではありません。そうでないと、聖書を読んでも、小説
を読んでいるようなものであって、知識は増えても何の役にも立たないのです。
 信仰には主張があります。編集委員としてこの「同労者」も主張をもって編集しているので
す。ですから、別な意見がでてくることを予想します。聖書によってその是非を論じようではあり
ませんか。



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