「同労者」第10号(2000年7月)                         目次に戻る 

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1998.11.24 から
ローマ人への手紙(第10回)

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


 「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。…夜はふけて、昼が近づきまし
た。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」
(ローマ13:11〜12)


 前回、ローマ人への手紙12:1〜15:33は、聖霊の実を結ぶことを主題としていることを述べま
した。そして12章から、「慎み深い考え方をしなさい。」(12:3)と「愛には偽りがあってはなりませ
ん。」(12:9)という箇所に焦点をあてて学びました。その中で、慎み深い考え方は私たちがキリ
ストの体の一器官であることを認識することによってできること、愛に偽りがないとは私たちの
行動の動機が純粋な愛だけであることを言っていることを示しました。
 9節に続くパウロの勧めの一つ一つ、すなわち、
「兄弟愛をもって心から互いに愛しあい、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思い
なさい。」(12:10)
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(12:11)
「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(12:12)
「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」(12:13)
「あなたを迫害する者を祝福しなさい。…」(12:14)
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(12:15)
「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず…。自分こそ知者だなどと思ってはいけませ
ん。」(12:16)
「誰に対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(12:
17)
「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(12:18)
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。…善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(12:19-21)
は、私たちが聖霊の実を結ぶ上において重要な働きをするものですから、繰り返し読み、私た
ちの心に納めておくべきものだと思います。
 それは、その聖言を適用すべき事態が生じた時、聖霊が私たちに示して下さるためなので
す。聖言が私たちの心に納められていないと、聖霊はそれを用いることがお出来になりませ
ん。そして私たちは、聖霊の導きを頂き損なうのです。
 私たちの目指すべき信仰は、私たち一人一人がその信仰の馳せ場において、いかに信仰、
愛、忍耐、謙遜、等々を顕わすかということに力点が置かれます。だから「摂理によって遭遇す
る事態、時」というものが極めて重要なのです。そういう事態に遭遇しないと、私たちは聖霊の
実を結ぶことができないからです。前回の締めくくりに述べたのはこのことなのです。そして、そ
の事態に遭遇したとき、聖霊が私たちを導かれるためには、聖言が私たちの心に納められて
いなければならないのです。イエスは結実を示す"種蒔きの譬え"でこう言われました。「種は神
のことばです。」(ルカ8:11)そしてこの種は「…人の心に蒔かれ…」(マタイ13:10)るのです。私たち
が結実のために心懸けるべきことは、聖言を心に納めることと、摂理によって導かれ、聖霊に
その聖言を示されるとき、聖霊の導きに従うことなのです。
 聖霊は教会の秩序を飛び越えて、ただ一人の人に"こうせよ。"とおっしゃるのではありませ
ん。キリストの体の秩序の中で、"この方に従って歩みなさい。"と語って下さるのです。ローマ
人への手紙では、キリストの体の形について「予言する人、奉仕する人、教える人、勧める人、
分け与える人、指導する人、慈善を行う人」(ローマ12:6-8)とあり、コリント人への手紙では「使
徒、預言者、教師、奇跡を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る
者」(コリントT12:28)とあります。パウロの伝道が終わりに近づく年代では、教会はその形が整
い、「監督、執事」(テモテT3:1,8)、「監督、長老」(テトス1:7,1:5)という職分が明確になってきて、現
在の私たちの教会とほぼ同じ姿になっています。
 教会において、牧会する人や教える人にはより厳しい、義、信仰、愛といった聖霊の実の要
求があるのです(ヤコブ3:1)。つまり牧会は、キリストに対する愛と牧される人々への愛によって
なされなければ、神がそれを嘉納されないのです(ヨハネ21:15-19,ヨハネ10:11-15,エゼキエル34:1-31,
ペテロT5:1-4)。それを前提に、聖霊は指導をして頂く側の人々に「若い人たちよ。長老たちに
従いなさい。」(ペテロT5:5)とおっしゃるのです。「父と母に従いなさい。」(マタイ19:19,コロサイ3:20)や
「妻たちよ。夫に従いなさい。」(エペソ5:22,ペテロT3:1)というような聖言もすべて同様の原則の上
に成り立っています。
 聖霊は個人への直接的な指導を、"この方の指導を受けよ。"というところにとどめられ、具
体的行動の段階を教会の秩序に中で、「人」を介して導かれることが多いのです。そこに聖霊
による導きと慎み深い考え方との調和があります。神が人を介して自分を導いて下さる、この
導く人を動かしておられるのは神であると信ずる信仰は極めて大切です。

 4.2.3この世の生活における生き方(ローマ13:1〜14)
 前回同様、パウロの発想の流れを追ってみましょう。
・ローマ 12:19自分で復讐してはいけません
・ローマ13:1-5この世の支配者に従いなさい
・ローマ13:6この世の税を払いなさい
・ローマ13:7義務を果たしなさい
・ローマ13:8-10 借りを残さないようにしなさい。ただし、愛については別です(違います/借りが
あってよいのです)人を愛するものは、律法を完全に守っている…なぜそうか、律法の中心で
ある十戒の人に対する部分は、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」というこ
とばに要約されているから
・ローマ13:11 今がどのような時か知っているはず(その時とは、キリストの再臨を待っていると
き)もう眠りから覚めるべき時刻、私たちが信仰を持った時点よりも、救い(キリストの再臨)が
近づいた
・ローマ13:12-13 だから"やみのわざ"を打ち捨てて、光の武具を身に着けよう(やみのわざと
は、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみ)
・ローマ13:14 イエスキリストを着なさい/肉の欲のために心を用いてはいけない

着目点とその解説
@上に立つ権威の問題(ローマ13:1-7)
 聖書にはいろいろなことについて"こうせよ"としるされています。しかしすべての指示、命令
が同一の重さだというのではありません。「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗ん
ではならない。」「偽ってはならない。」「貪ってはならない。」「父と母を敬え。」(出エジプト20:12-
17,マルコ10:19)は不変の律法として扱われます。しかし「女が祈りや予言をするとき、被りもの
を着けていなさい。」(コリントT11:3-16)はその地方、その時代の生活の中における相応しいあり
方を述べているに過ぎないことは明らかです。
 上に立つ権威に従えというのは、後者に属する命令なのです。それは「王と…のために願
い、祈り、とりなし、感謝がささげられるように…」(テモテT2:1)と同じです。その目的は、「私た
ちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(テモテT2:2)なので
す。
 この世の法律に従うこと、税を納めること、この世の義務を果たすこと、これらはすべて、そ
の考えに基づくのです。法律を変えるとすぐ、守らなければならないことがひっくり返ってしまい
ます。この世の法律は、パウロが勧めるとおり守らなければなりませんが、「この世の法律を
守ること」と「神が要求される義」とを混同してはなりません。
 ルターはその働きの終わり近くに、聖書のこの命題を読み誤ったため、南部ドイツの信者た
ちの信仰を保つことができなかったことが知られています。
 もしパウロがリンカーンの時にいたら、奴隷解放のために戦えと言ったにちがいないと思いま
す。

A律法の要約「自分を愛するのと同じように、あなたの隣人を愛せよ。」
「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:10)
十戒の第五戒以下は、隣人に害を与えることの禁止から成り立っていることがわかります。
「律法の中で、大切な戒めは…」との質問を受けて、イエスは「心を尽くし、思いを尽くし、知力
を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。…あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。」と答え
られ、「律法と予言者との全体がこの二つの戒めにかかっているのです。」と解説をされまし
た。(マタイ22:36-40)
 これらの戒めは、既に旧約聖書の中に示されてはいますが、強調されてはいませんでした。
旧約の時代には、「害を与えない」律法の方が取り上げられていたのです。新約の時代には、
積極的に「愛する」ことの方が強調されます。そして、愛は旧約で強調されていた面「隣人に害
を与えない」も全うするのです。

B今がどのような時
 前述のように、今は「キリストの再臨を待っているとき」なのです。
ですから、花婿のおいでを待つ娘たちの立場にいるわけです。「そら、花婿だ。迎えに出よ。」
と声がかかるのは間近だから、目を覚ましていなさい。(マタイ25:5,25:13)ということなのです。
「私たちが信じたころよりも、今は救い(キリストの再臨)がもっと近づいているからです。」(ローマ
13:11)

Cやみのわざを打ち捨てて光の武具を着ける(ローマ13:12-13)
「夜はふけて、昼が近づきました。」この昼はキリストの再臨です。ですから、つまりキリストにお
会いできるように、キリストの花嫁に相応しいものであるように、「やみのわざを打ち捨てて、光
の武具を身に着け」なければならないのです。
 13節に「やみのわざ」の内容が説明されています。すなわち「遊興」「酩酊」「淫乱」「好色」「争
い」「ねたみ」がそれです。
 これらのうち、前四つは自分の肉体の欲望に端を発するもの、あとの二つはもっと奥深く、対
象となる人がいてその人に対する「曲がった心」から発するものです。
 私たちを取り巻く現代の様相はますます、悪くなっており、これらのことが一般的に「悪」と認
められなくなりつつあります。だから私たちは、それらの教えの風に吹き回されないように注意
していなければなりません。
 パウロは「光の武具」の詳細をこの箇所では説明しませんでした。しかし後にエペソ人への手
紙にそれを記述しました。(エペソ6:10-18)

D主イエス・キリストを着る
 キリストの霊である聖霊が、私たちの内に住んで下さり、私たちがその導きに従って生きると
き、私たちの心根や行動のうちにキリストが顕わされるのです。それがすなわちキリストを着る
ことなのです。ここで大切なことは、それが命令形で記されていることなのです。つまり、そこに
は私たちが"いつの間にかキリストのようになっていた"というようなものではなく、意志を働ら
かせ、心懸けて"キリストを着るのだ"ということが示されています。キリストに似たものとなるこ
とを願い、キリストの足跡に従って歩み、キリストとともに十字架を負う生活をよしとしなければ
ならないのです。

E肉の欲のために心を用いるな
 「『酒に酔うな。』と書いてあるが『酒を飲むな。』とは書いてない。」という人がいます。これ
は、酒を飲みたい人が、"私の隣人とはだれのことですか。"(ルカ10:29)と言った律法の専門家
のように自分を弁護していっている言葉です。そういう言動をする事が、"肉の欲のために心を
用いる。"ことなのです。酒を飲めば必ず酔うのですから、酔うことと飲むことは同義なのです。
 聖霊はこう言われます。「それ肉の行為はあらはなり。即ち…酔酒、宴楽の如し。」(文語訳)
「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:19-21)

<今回の学びの結び>
 私たちは、肉の欲のために心を用いることのないように気をつけたいものです。
「酒に酔うな、放蕩はその中にあり。寧ろ御霊に満たされ…よ。」(エペソ5:18文語訳)

 

 

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