「同労者」第11号(2000年8月)                             目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL & FAX :  022-266-8773
 e-mail 



(質問)
・アルミニアン主義の中で、特に私達の立場であるアルミニアン・ウエスレアン主義とは何で
すか?
・カルビン主義とアルミニアン主義との問題点である聖定の「予定」と「予知」の違いについて
教えてください。
聖餐式について
  司式者の資格とその根拠は?披受者の資格とその根拠
 少し面倒な質問と思いますが一度に全部、解説願わくても結構ですので、順を追って許され
る誌上で教えて下さい。                  森教会 秋山光雄


 秋山光雄先生から頂いたご質問について、"皆さんにこんなことを解説しておくとよい。"とい
う意味であると思って答えさせて頂きます。


1.アルミニアン主義の中で、特に私達の立場であるアルミニアン・ウエスレアンとは何
ですか?
(回答)
 まずアルミニウス主義とウェスレー主義とを二つ重ねて表現する理由は、ウェスレーはアルミ
ニウス主義の立場に立っていますが、ウェスレーの神学はアルミニウス主義の範囲にとどまら
ず別の要素を含んでいます。それをウェスレー主義といいます。またそのアルミニウス主義も
ウェスレーによって整理されたアルミニウス主義神学と言う意味で、ウェスレアン・アルミニアニ
ズムと呼ばれます。アルミニアン・ウェスレアン主義神学と表現するときには、ウェスレアン・ア
ルミニアニズムとウェスレー主義とを合わせたものと理解されます。
 アルミニウス主義は、カルビン主義との違いを明らかにすることによって明確になります。そ
の内容は「同労者」第7号(2000年4月号)p.12に項目だけではありますが、ひと通り述べら
れていますから参照して下さい。もっと学びたい方は、パーカイザー編著、キリスト教信仰の探
求、いのちのことば社、1966、p.107などを参照して下さい。
 ウェスレー主義の中心は
  ・確証の教理
  ・クリスチャンの完全(聖化)の教理
の二つです。
 「確証の教理」の中心的な主題は、信仰を経験の宗教とした点にあります。ウェスレー
当時のほとんどのキリスト者達は、日本人が宮参りをし、あるいは仏教の坊さんの読経を聞い
て、宗教をしていると考えているのと同程度であったと考えられます。ウェスレーの母スザンナ
すら救いの経験を知らなかったようです。
 人間は、自分が"救われた。"、"潔められた。"と知ることができる。知らなければならない。
知らない人は救われ、潔められていない恐れがある。つまりキリスト教の信仰は、実際生活
の上で経験されていなければならないというのがウェスレーの主張です。彼は、もし聖書に
いかなる教理が書かれていたとしても、それが人間の経験としての領域に実現しないものであ
るなら、その教理は捨てられなければならない、と言っています。これは、聖書よりも経験を重
んじると言うことではなく、"神は人間の経験として実現しないことを聖書に書いたりはなさ
らない。聖書に書かれていることはすべて人間の経験として実現する。"と主張しているの
です。
 ウェスレーのこの経験主義の信仰の端緒は、モラビア派によってもたらされたものですが、
彼はそれを神学的に整理し世に紹介しました。


 ウェスレー主義のもう一つの主題は、「クリスチャンの完全の教理」です。これは、先月の
質問である"聖潔"と同一の内容をさしています。
 この主題の中心は、"クリスチャンは単にキリストを救い主として同意するのみでなく、実
質的に聖なるものとなり、義に生きなければならない。"という点にあります。確証の教理に
示されているとおり、自分は罪を赦されたと知ると同時に、自分が日々行う行為についてそれ
が義であるか罪であるかも知る、ということが前提に挙げられます。
 彼は、クリスチャンの実際の姿をよく観察し次のような結論に達しました。"救われた人には
新生のいのちが与えられて、クリスチャンとしての歩みを始めるが、実際に罪を犯しては
悔い改める葛藤の信仰生活に入る。それは、救われ、過去に犯した罪を赦された人の
内にもなお罪の性質が残されていて、その罪の性質が彼に罪を実行させるのである。"
と。
 ウェスレーはさらに、"神はこの罪の性質に対する救いを備えられた。それは、悔改めと
新生という転機的救いに与った人が、さらにもう一度転機的経験をもって与えられるもの
であり、救いのときに新生のいのちが与えられたように、聖霊の満たしを伴うものであ
る。この第二の転機は、聖書に「聖霊のバプテスマ」と書かれている内容そのものであ
る。そして人はその転機を通して聖潔の状態に入れられ聖潔の生涯を歩むことができ
る。"ということを見いだしたのです。ウェスレーは彼の著書「キリスト者の完全」の中で、自分
自身がクリスチャンの完全の教理を信ずるに至った経緯と、これをよく考察してその解釈の行
き過ぎを是正したことや、クリスチャンの完全とは、何であるか、何でないか、どのようにして与
えられるものか、どのようにしてそれを維持できるか、何に警戒しなければならないか、などに
ついて詳細に説明していることは皆さんのよく知っておられることだと思います。
 このように確証の教理キリスト者の完全の教理は、表裏一体となってウェスレー主義を
現しています。さらに学ぶためには、ワインクープ、ウェスレアン・アルミニアン神学の基礎、福
音文書刊行会、1972などを参照して下さい。

2.カルビン主義とアルミニアン主義との問題点である聖定の「予定」と「予知」の違いに
ついて教えてください。
(回答)
 "世界のはじめから終わりまですべてが決定されている。これが「聖定」である。「予定」は聖
定の個人の救拯に関する部分であって、すべての人が救われるか否かあらかじめ決定づけら
れているということをさす。もしそうでなかったなら、神がすべてを「予知」されることは不可能で
ある。"これがカルビン主義者の主張する論理です。
 アルミニアンの主張である「予知」とこのカルビン主義者の主張する「予定」との差は何である
か、という問いに答える前に、この問いの持っている問題の本質を考察しなければなりませ
ん。予定とか予知とか言っても、この世界の終わりはいつか、とか御再臨はいつかなどという
ようなことは議論の中心ではありません。予定とか予知とかいうことが、火花を散らす議論をも
たらす点は、「個人の救いは予定されたものか。」ということにあります。
 カルビン主義者たちの主張では、予定と予知は全く同一のものです。彼らはアルミニウス主
義者たちの言い分に対しこう主張します。「もし神は、A氏が信じることをあらかじめ知っておら
れたなら、A氏が信じないという可能性は全くないことになる。したがってアルミニアンが言うよ
うに、神がすべての事を予知しておられるなら、すべての事は確実に起こり、それ以外の事の
起こる可能性がなくなる。つまり、これはカルヴィニストが信じていることと正に同じである。」(エ
ドウィン.H.パーマ、カルヴィニズムの五特質、つのぶえ社、1978、p.64)
 同じ書の中で問題の本質がこのように述べられています。
「もし神がすべての事柄を予定されているなら、人間の責任はどこにあるのか。…<予定され
た盗人>の作者(彼を創造したお方)は、予定された盗人が盗みの責任はないと論争するの
は誤りだったのではないか。神が非難されるべきではないか。…ここに…偉大な神秘がある。
神の聖定と人間の自由の調和という、この圧倒するような問題を、どのように解決するか。そ
れは神の主権と人間の自由、神の自由と人間の自由、神の愛と神の全能の神秘である。この
二つをどのように調和するのか。…カルビニストは二律背反の両者を受け入れる。彼は自分
の主張することがおかしいことを知っている。人間がこの二つを調和させることは不可能であ
る。」(エドウィン.H.パーマ、前掲書、p.170,172)つまり予定の教理と、人間の自由と責任、義と罪、
神の審判の妥当性などは相容れないものであることを、カルビン主義者達も認めているので
す。しかし、カルビン主義の主張の本質は聖定の概念の上の論理の展開であって人間の自由
を捨てているのです。
 神が未来のことをすべてご存じであること(予知、予定)と、人間が自由に己の行く道を(行為
を)決定できること、この二つのことは聖書に両方書かれています。
この予知、予定の方を取り上げて展開したのがカルビン主義神学であるのです。人間の自由
と責任、罪と義、キリストの贖罪と恩寵によって神の聖性に与ることこれらの上に立って展開さ
れているのが、アルミニアン・ウェスレアン神学なのです。
 ですから土俵が二つあって、その一方は予定と予知の議論の土俵、もう一つは人間の自
由と責任と罪と神の恩寵と審判の土俵であるわけです。予定と予知の比較の土俵に乗ると
カルビン主義神学が展開されます。カルビン主義者たちは、人間の自由と責任ということが聖
書に書かれていることを認めているにもかかわらず、アルミニアンの信仰を合理主義(デカル
ト、ベーコンなどを代表とする近世哲学)の上に立っているものであって、聖書に立っていない
と非難しています。しかしアルミニウスもウェスレーもよくよく聖書を調べて、神が人間に示して
おられるのはこの人間に自由を与え、自分で己の行為を決定していく、神に仕えるということ
は、人間が自主的意志によって神に仕えることをよしとされているのだ、という結論に立ったの
です。選ぶ自由を持っていないなら、神は選べと言われない、これが1.の質問の中に示され
ているウェスレーの主張です。
 人間の自由と責任という土俵から、もう一度「予知」とは何であるか見直すと、神の許容力の
大きさに達します。人間が自由に選ぶと神はその次にまた、摂理のうちに別の課題を備えられ
て、「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを証人に立てる。私は、いのちと死、祝福との
ろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)と言われます。
 このように自由な人間の選択を越えて、神がすべてを見通されるということがアルミニアンの
主張する神の予知です。「神よ。あなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。その総
計は、なんと多いことでしょう。」(詩篇139:17)
 参考書:ワイレー、カルバートソン、キリスト教神学概論、イムマヌエル綜合伝道団出版局、
1977、p.124など。

  (聖餐に関するご質問には次月お答えすることにします。)
 




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