「同労者」第11号(2000年8月)                            目次に戻る 

論  説
 ― 知 識 と い の ち ―

「人のいのちは持ち物の豊なるには寄らざるなり。」(ルカ12:15文語訳)
この聖言は、次の内容にもあてはまります。「人のいのちは知識の豊かさにはよりません。」


 知識を得ることは簡単ですが、いのちを得ることは難しいのです。
 この欄は、論説ではありますが、今回は本誌の編集委員の一人として個人的な問題から入
りましょう。
 自分は、知識をどのようにして得たか、を説明しますので参考にしてください。
・説教を考察する
・信仰生活上の課題を牧師に相談する
・聖書を調べる
・信仰に関する良書を読む
 …パゼット・ウィルクスが「救霊の動力」に記した勧めを入れて、潔め派の良書を選択(信仰
書ならどれでもよいのではない)
・祈りの実践がそれです。
  正しい知識を得れば、誰かの課題に正しいお勧めもできます。しかし、それを聞いた人がそう
だと納得できるとはかぎりません。そのため大変悲しいことが多いのです。愛すれば愛するほ
ど不成功の人を見なければならないからです。
 私は、私のことばが正しい、すなわち聖書に一致しているか、神の御心に一致しているか、と
いうことが課題なのではなく(追記:私は聖書をよく調べていますから、課題はそういう段階では
ないので)、私のことばを聞く相手の方々がそれを受け入れ得るか否かが課題だと感じていま
す。そこに、私からいのちが流れ出るか否かが示されているからです。そしてそれが十分には
満足すべきものになっていないことを見ます。
 若いときには勢いがあって、仕事だ、結婚だ、子育てだ、伝道だ、とそれだけで時間が足りな
いでしょう。それらは知識といのちの両輪をもって取り組まなければなりませんが、知識は多い
に役立ちます。しかし、年齢が上がってくると、仕事も、結婚も、子育ても終わり、伝道も若い
人々に譲らなければなりません。知識は年齢についてくる面があって、教会に行って坐ってい
るだけでも増してきます。知識が豊かでいのちに欠けると口うるさい人になりがちです。「いの
ち」に関する事柄について魂の営みができないと、信仰上で取り組むことが無くなってしまいま
す。それでは、信じているとは言いながら、信仰に関してはまことに淋しい年寄りをすることに
なるではありませんか。
 イエス・キリストはこうおっしゃいました。「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生け
る水の川が流れ出る…」(ヨハネ7:38)と。どうか皆さん、一緒に「いのち」を得ようと努めようではあ
りませんか。そして、お互いいくつになっても、  ――いのちの流れ出る人――  であらせて
頂きましょう。



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