「同労者」第11号(2000年8月)                            目次に戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (5) −

D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

   母の愛に優る神の愛

 しかし、どんな母の愛も、神の愛とは比べることは出来ないことを、言わなければなりませ
ん。母の愛は、神の愛の高さにも深さにも及ばないのです。この世のどんな母親も、神が私達
を愛するように自分の子を愛した人はいません。御子を、世のためにいのちを捨てる目的でお
与えになった時、神が間違いなく持っておられた愛を考えてみてください。私自身はかつて、御
父より御子の愛が、より重いもののように考えていました。なぜか私は、神は厳格な審判者で
あって、キリストは神と私との間に立ち、神の怒りを和らげてくださるのだ、という考えを持って
しまっていたのです。けれども、私自身も父親になり、数年間息子が一人だけという時期があり
ました。その時その息子を見るにつけ、私は御父が御子をいのちを捨てるために与えてくださ
ったことを思い、その思いは宛も、死んでくださった御子よりも御子をお与えになった御父をよ
り愛することへ、私の心を引き付けるかのようでした。
 ああ。御父が御子を、世のためにいのちを捨てる目的で与えてくださったとは。神はどれほど
世を愛しておられたのでしょう。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 私は今まで一度
もこの聖句で説教を出来たことがありません。何度かしようとしたことはあります。しかしそれ
は、高すぎて超える事の出来ないハードルでしたので、いつもちょっと引用する程度で通り過ぎ
て来ました。誰が、「神は…ほどに世を愛された。」という言葉の深さを測ることが出来るでしょ
うか。私達は決して神の愛の高さも深さも測ることは出来ません。パウロは、神の愛の高さ、深
さ、長さ、広さを知ることが出来るようにと願いました。しかしそれは、彼の能力をはるかに超え
ていました。「人知をはるかに越えた」(エペソ3:19)

   キリストの十字架と神の愛

 キリストの十字架ほど、神の愛を物語るものはありません。ご一緒にカルバリへ心を向け、そ
こで磔にされている神の御子を思い描いてみましょう。死に行く主の唇からの刺すような叫び
が聞こえませんか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからない
のです。」それを聞いて尚、神は私を愛していない、と言うのですか。「人がその友のためにい
のちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)しかし、イエス・
キリストはその敵のためにいのちをお捨てになったのです。
 もうひとつ大切な事は、神は、私達が神を知るずっと以前から私達を愛しておられたというこ
とです。人間の側が最初に神を愛さなければ、神は愛してくださらない、という考えは聖書的で
はありません。ヨハネの手紙第一4:10に、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛
し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるので
す。」とあります。神は、私達が初めて、神を愛するということを考える前に私達を愛してくださ
いました。私達は、自分の子供達が親の愛について何も知らないうちから、子供達を愛しま
す。同様に、私達が神を思うずっと以前から私達は神の御思いの中にいるのです。
 放蕩息子を連れ戻したものはなんだったのでしょうか。それは、父親が自分を愛している、と
いう思いです。もし、父親は彼を見捨て、もう気にも留めていない、という知らせが息子のところ
へ届いたとしたらどうだったでしょうか。彼は家へ戻ったでしょうか。いいえ、決して戻らなかっ
たでしょう。しかし実際は、彼の心の中に、父親が今でも自分を愛しているという思いが、生き
生きと浮かび始めました。それで彼は立ち上がって、故郷へ帰っていったのです。
 皆さん。御父の愛は、私達を必ず主のもとへ連れ戻します。神の愛を明らかにしたのはアダ
ムの悲劇と罪でした。アダムが罪に堕ちたとき、神は降りて来られ、あわれみのうちに彼をお
扱いになりました。もし、ひとつの魂が失われてしまったとしたら、それは神が愛しておられない
からではなく、その人が神の愛を拒んだからです。




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