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          「同労者」第11号(2000年8月)
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           「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。」(ローマ14:1)
           
          
           前回は、ローマ人への手紙13章を学びました。その中で、以下の6項目に着目しました。
           
          
          @上に立つ権威の問題(ローマ13:1-7)
           
          
           「この世の法律を守ること」と「神が要求される義」とを混同してはいけない。
           
          
          A律法の要約「自分を愛するのと同じように、あなたの隣人を愛せよ。」
           
          
           「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:10)
           
          
          B今がどのような時(ローマ13:11)
           
          
           今は「キリストの再臨を待っているとき」です。
           
          
          Cやみのわざを打ち捨てて光の武具を身につける(ローマ13:12-13)
           
          
          D主イエス・キリストを着る(ローマ13:14)
           
          
          E肉の欲のために心を用いてはいけない(ローマ13:14)
           
          
           キリスト教界で、案外理解されないのは、@の項目であるかも知れません。しかし、私たちは
           
          "この世の中で"信仰を持ち、神とともに歩むことをするのですから、この問題を正しく理解して いることが大切です。パウロ自身イエスの言われた、「カイザルのものはカイザルに返しなさ い。神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:25)との言葉を、思い浮かべていたことでしょう。 
          本日の学びに入ります。
           
          
          4.2.4弱い者への配慮(ローマ14:1〜15:13)
           
          
           前回の学びの箇所でパウロは、キリスト者が光の武具を身につけ、イエス・キリストを着、や
           
          みのわざとその背後にある悪の霊と戦う戦いの進軍ラッパを吹き鳴らしました。 
           その最後の部分で、パウロは「やみのわざ」を糾弾しました。やみのわざをやめない者は、教
           
          会から追放されなければなりません。もしも人がその人を追放しなくても、神が実を結ばない枝 としてこれを取り除かれ(ヨハネ15:2)ます。 
           そのように指摘するパウロの心に浮かんだことは、"「やみのわざ」と同じように「弱さ」が扱わ
           
          れてはいけない。"ということであったものと思われます。戦いに耐え得ない信仰の弱い兄弟達 には特別に配慮が必要です。そのために、14:1から15:13までの長い文を用いてその対応にあ たりました。教会が弱い人をどのように扱うかで、教会が建設されあるいは倒れると考えたに 違いありません。 
           @信仰の弱い人(ローマ14:1)とはどのような人のことをいうのでしょうか
           
          
           ここで、パウロは単に「弱い人」と言わず、「信仰の弱い人」と限定しています。単に弱い人で
           
          あるならば、この世の権力の観点からの弱い人、経済、貧富の観点からの弱い人、肉体の弱 い人すなわち病気の人、精神(心)の弱い人、頭脳的な能力の弱い(足りない)人などがありま す。ここではそれらの全体について言及しているのではありません。 
           この世の弱い人へも、貧しい人へも、体を病むあるいは柔弱な人へも、精神(心)の弱い人
           
          へも、能力の足りない人へも、その他何らかの助けが必要な人へも教会は助けの手をのべる 必要があります。しかしそれらは愛の業として行われ、教会を覆すような問題を引き起こすも のではありません。しかし信仰の弱さへの対応は、教会を覆しかねない問題を内在していま す。 
           弱い人の姿をパウロは以下のように記述しています。
           
          
          ・弱い人は野菜しか食べません。(ローマ14:2)
           
          
          ・ある日を、他の日に比べて、大事だと考える…(ローマ14:5)
           
          
           参考のため、M.A.バーネットのローマ書註解*のこの箇所の解説を引用します。
           
          
           *:M.A.バーネット、ローマ書註解、小島伊助、羽鳥明訳、福音伝道教団出版局、再版、
           
          1961、p.282 
          「ローマ教会で「弱き者」と呼ばれた人々が、実際にどのようなグループであったかについて
           
          は、註解者の間で意見がまちまちである。一般のキリスト者達に対して、彼らを親切に受け入 れよと勧めているのであるから、彼らが少数派のものであったことは明かである。 
           彼らがどのようなグループの人達であったかについて、種々な説があり、次の如きが最も可
           
          能な説と思われる。 
          1.ユダヤ人の律法主義から抜けきれずにいるユダヤ人改宗者、またはユダヤ的思想に強く影
           
          響された異邦人達。この場合、肉を斥ける理由は、偶像にその肉が献げられたかも知れない ことを恐れてである。 
          (コリントT8〜10章参照)。モーセの律法は、単に潔からざるものの肉を遠ざけることを命じてい
           
          るのみであるから。 
          2.回心前に、或る種の禁欲主義哲学を信奉していた異邦人。
           
          
          3.回心前、エッセネ派に属していたユダヤ人。
           
          
          4.ゴーデーは、今日の多くの菜食主義者の如く、肉食は大洪水以後になって初めて許されたの
           
          であって、なるたけそれ以前の原始状態に復帰すべきと考えておったろうと推察している。しか し、これは彼らが特別な日を重んじたという事実の説明とはならない。全体のうち、第1の説が 最も可能性があると考えられる。」 
           パウロは、ユダヤ教の教えがキリスト教に混入してくることを、恐れて避けさせました。「私た
           
          ちは彼らに一時も譲歩しませんでした。…私は(ペテロに)面と向かって抗議しました。なぜな ら、彼は、…割礼派の人々を恐れて、だんだん異邦人から身を引き…」(ガラテヤ2:3〜3:29)と。 ですから、ユダヤ主義者に寛容であるようにとは言わなかったでしょう。むしろ、コリントの教会 に書いた手紙(コリントT8〜10章)にあるように単純に偶像礼拝との関係から、偶像に捧げた肉 を食べることを避けた人々と考えるべきでしょう。 
           コリント教会の弱い人(コリントT8:9)は「唯一の神以外に神は存在しない。」(コリントT8:4)という
           
          知識を持っていない。だから偶像を捧げた肉だと思いながら食べるので、かれらの弱い良心 が汚されるのです、(コリントT8:7)とパウロは指摘します。ローマ人への手紙でも、「主イエスに あって、私が知り、また確信していることは、それ(食べ物)自体で汚れているものは何一つな いということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなので す。」(ローマ14:14)と述べています。 
           飲酒はここで言う許容されるべき飲み食いの問題ではありません。それは前回の学びにあっ
           
          た、「やみのわざ」として糾弾されたものに含まれる内容です。ここでは食べること飲む事では なく、食べないこと飲まないことが課題になっています。 
           また日について、主日を守るのか、主の復活の日を守るのか、それともユダヤ教の習慣に
           
          従って、安息日(土曜日)や年三度の祭りの日を守ることか明確でありません。しかし、パウロ が指摘している課題となった出来事は、ユダヤ教の安息を守る習慣ではなく、主日の守り方そ のものについての議論ではないでしょうか。 
           現在、私たちは、「安息日に良いことをすることは、正しいのです。」(マタイ12:12)としてあまり
           
          厳格に聖日を扱っていませんが、日曜日に買い物に出たら、罪人扱いされる地域があること はよく知られています。 
          A信仰の弱い人の地位についての見方
           
          
           信仰の弱い人の地位について、以下の2点が述べられています。
           
          
          ・信仰の弱い人も神のしもべであること(ローマ14:4)
           
          
          ・信仰の弱い人も自分の信仰の兄弟であること(ローマ14:10)
           
          
          B信仰の弱い人の扱いに対するパウロの勧め
           
          
           双方を対等の位置において、両者が互いに相手を
           
          
          ・侮らないように(3,10)
           
          
          ・裁かないように(3,4,10)
           
          
          ・弱さを担ってあげなさい(15:1)
           
          
          と勧めます。
           
          
          Cその理由
           
          
          その理由としてパウロは次のようなことを列挙しています。
           
          
          ・しもべが立つのも倒れるのも主人次第であなたには関係ないから(4)
           
          
          ・主のしもべをあなたが裁いてはいけないから(4)
           
          
          ・兄弟を裁いてはいけないから(10)
           
          
          ・日を守るのも、守らないのも主のためにしていることだから(5〜6)
           
          
          ・自分のことを申し開きしなければならないから(12)
           
          
          ・兄弟の心を痛めるなら、それは愛の行動ではないから(15)
           
          
          ・神のみわざを破壊することになるから(20)
           
          
          ・すべてのものはきよいと言って、食べることを強行すると、信仰の弱い兄弟が
           
          
          躓くから(20)
           
          
          D積極的生き方についての勧め
           
          
           あなたがたはもっと積極的にこう生きなさいと、以下のようにパウロは勧め、そのひとつひとつ
           
          にその理由を添えています。 
          ・「あなた方が良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。」(16)
           
          
          ・「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めなさい。」(19)
           
          
          ・「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」  (22)
           
          
          ・「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきで
           
          す。」(15:2) 
          その理由(上の各項目に対応して) 
           
          
          ・「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだから」(17)
           
          
          ・「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められる」(18)から
           
          
          ・「自分が良いと認めていることによって、裁かれない人は幸福です。」(22)から
           
          
          ・「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」(15:3)から
           
          
          Eこの箇所のまとめと祈り(15:4〜13)
           
          
          ・「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書  の、与
           
          える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(15:4) 
          ・忍耐と励ましの神が、あなたがたを…互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」
           
          (15:5) 
          ・「望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊  の力に
           
          よって望みにあふれさせてくださいますように。」(15:13) 
          <今回の学びの結び>
           
          
           信仰の弱い人を受け入れるには、受け入れる側も受け入れられる側も、忍耐を必要としま
           
          す。ですから忍耐と励ましの神の助けが必要です。キリストはその手本を示されました(15:8)。 そのようにして心を一つにし、声を合わせてイエス・キリストの父なる神をほめたたえる(15:6)こ とができます。「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくだ さったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(15:7)  |