「同労者」第12号(2000年9月)
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並べてください。@ゴリアテとの対決。Aサムエルからの油注ぎ。Bサウル王のもとで得意の 立琴を演奏する。答えわかりますか。勘ではなく自信を持ってです。 ダビデの生涯を大きく変えたことは、神の選びがなされたことである。見るからにまだ若く、幼 さも残る者を神は名指しで取り、選びの器として聖霊を注がれた。神の目には彼がそれである と判ったのであろう。基準は何だったのだろうか。どうしてこの時だったのだろうか。もう少し年 を取ってからでもよかったような気がする。彼を特別視する輝きがすでにあったのだろうか。疑 問は残るが、きりが無いので先へ話を進めつつ考えてみたい。 ダビデにとっての最初の大きな事件はゴリアテとの対決である。これが彼の少年期に起こっ たものと考えられている。教会学校のクリスマスの劇には何回と無く登場しているお話である。 よく知られているお話なのでくどくど書くつもりは無いがいくつかの疑問を考えてみる。ダビデは まだこの時戦士ではなく父の羊を飼う者であった。父に頼まれて戦場視察に出かけた。それが 結果的に彼をゴリアテ対決に導いたのである。聖書は、それが必然であったかのような書き方 と読者に多くの違和感を持たせないように努めているふしがある。しかし、普通に考えれば少 年をイスラエルの代表者として戦いに出すなどお話にならない漫画である。ゴリアテがイスラエ ルをバカにしつつ対決の目的を語っている。サムエル記T17:9に「おれと勝負して勝ち、おれを 打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おま えらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」とある。代表戦士には死の恐怖とイス ラエルの命運が託され、そのプレッシャーは並大抵のものではなかったと考えられる。そんな 大切な戦いにおいそれと少年を出すのは愚の骨頂と言わなければならない。この戦いの責任 者サウル王がいかにおかしくなったとは言え歴戦の勇士でありイスラエルを治める指導者であ る。考えられることは責任者としてどっちに転んでも戦い抜ける目算が立つゆえに、ダビデが 戦いに出ることを許した。それはきっとこんなところであろう。万が一特別な力が働いてダビデ に勝利が転がってきたら士気は上がり一斉にペリシテをたたける。少年でも出来たのだから自 分だってこの戦いに馳せ参じた者として、神が力を与えて下さるだろうといった調子である。普 通に考える通り、ダビデが敗れ殺されても容赦なく子供に飛び掛る敵の悪辣振りを攻めて士気 の高揚を測れるのである。これが責任者の心内である。真実、誠実、まして聖きや愛など入り 込む隙間も無い恐ろしい戦いの現場である。対するダビデであるが彼を聖書は勇敢な愛国心 に富む、信仰者として書いているが見方によってはわきまえのない無鉄砲な自己主張の強い 若者の姿である。聖書は彼の告白を(同17:32)ダビデはサウルに言った。「あの男のために、 だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(同17: 36・37)このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人 も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」ついで、ダ ビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手から も私を救い出してくださいます。」と示している。前記したようなサウルの心内に響いたのだろう か。彼は「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」と言って彼を出してやった。結果を 知っている私達は、意外と冷静に事の成り行きを眺められるが、当事者として置かれるとその 真偽の見極めも決定も簡単ではない。せいぜいダビデの兄たちのように(同17:28)「兄のエリア ブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。『い ったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。 私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。』」と考 え彼の信仰告白などこの現場では通用しない戯言とする。 勝利はイスラエルにもたらされた。神がダビデを用いてことをなしてくださったのである。神政 主義は神を信じて生きる者たちにとって大変大切な価値観である。神の選びと油注ぎは少年 ダビデを一気に神の器に押し上げたのである。この器を受け入れることが神を受け入れること であり、神と共に生きることである。そして私たち個人とするならば、事の真偽も善悪も大きな 世の流れの中できちんと見極めていくことは不可能に近い。歴史を専門家が客観視して裁くよ うな姿勢は現場に居て出来るものではない。それを充分肝に銘じてこの時代の信仰者を生き 抜かなければならない。多くを知っているものではないが第二次大戦中、日本のキリスト教会 も侵略戦争の正当化に異議を唱えるものは多くなかったと聞く。責めるつもりは無い。私がもし その時代の当事者だったなら同じ道を選んでいたかもしれないからである。大勢の中できちん とした価値観を持ち続けることは容易ではない。人間の罪深さと欲深さ、自分さえよければい いという生き方は多くの弱さと共に人間を滅ぼしてきた。願わくは、そのような中で私達は神を みそばに置き、神の御意志をその度に確認しながら生きる者とさせて頂きたい。神の器は決し てそこにもここにもごろごろと転がっているのではない。本気で神に近くあることを願う者のみ がなりえるものである。 多くの人々は新しいヒーローに酔った。血色のよい顔で、目が美しく、姿も立派で、琴が上手で 勇士であり、戦士で、ことばには分別があり、体格もよい。(同16:12,18)これがダビデのデビュ ーした時の外観である。昨年、西武ドームに登場した投手のようである。彼が歌も上手である かどうかは知らないが多くの野球ファンだけではなく、野球を知らないおばちゃんたちも魅了し 球場にまで観戦に行く姿をテレビは取り上げていた。 ライバル登場にあせる自分がばかばかしいと、最初は見て見ぬ振りをしていたサウル王もそ れまで躍起になって国民の人気を集めていたことを考えると納得がいかない。女たちが、笑い ながら、くり返して「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌う声を聞くと「ダビデには万 を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と怒り心頭になるのも無理は無い。こ の二人の対立の構図は今後のイスラエルを巻き込みながら進んでいく。優劣をつけることと自 分の立場をそれによって決めることとは別である。サウル王に仕えていた多くの人々が言い知 れない悩みを抱えながら登場してきた新しい器を眺める姿が想像される。サウル王の息子ヨ ナタンでさえ自らの父とダビデの間を揺れ動きながら置かれた立場の中で真実に生きようとす る。これに神は何を示そうとしているのか。続きはまた今度とさせて頂く。 |