「同労者」第12号(2000年9月)                             目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL & FAX :  022-266-8773
 e-mail 



(質問)
・アルミニアン主義の中で、特に私達の立場であるアルミニアン・ウエスレアン主義とは何で
すか?
・カルビン主義とアルミニアン主義との問題点である聖定の「予定」と「予知」の違いについて
教えてください。
聖餐式について
  司式者の資格とその根拠は?披受者の資格とその根拠
 少し面倒な質問と思いますが一度に全部、解説願わくても結構ですので、順を追って許され
る誌上で教えて下さい。                  森教会 秋山光雄


 秋山光雄先生から頂いたご質問について、"皆さんにこんなことを解説しておくとよい。"とい
う意味であると思って答えさせて頂きます。・・その2


 先月、上記質問の1.と2.について答えさせていただきました。
 蛇足ですが、特に「予定」と「予知」の問題では、例えば「運命」という用語は、カルビン主義
の主張には相応しい表現ですが、アルミニアン・ウェスレアン主義には存在しないものです。す
べてのことが、神の摂理と人間の選択によって決定されてゆくのです。
 日本人の風土に根付いているこの"定め"の思想について少し述べますと、「縁(えん)」
いうことばがよく使われます。「縁」とは「因縁(いんねん)」ということであって、その概念は仏教
に由来するもののようです。これも"定め"の概念に類します。もっと言うと、「因」とは因果応報
の因に通じており、その人の前世や現世の過去によってもたらされるものであって、内的要因
といえます。一方「縁」はその人の外からやってくるもの、すなわち外的要因です。この「因」と
「縁」が定められているとします。ことにこの因縁ということばは、「家」の概念と結びついてい
て、その「家」に流れている"定め"を次々と負うというのです。ですから、「縁結び」というのは、
A家の因縁とB家の因縁とを婚姻によって結ぶというわけです。結婚式場の看板の多くは、Aさ
んとBさんの結婚披露宴ではなく、A家とB家の結婚披露宴となっています。縁結びは仏教を離
れて日本神道(神社宗教)に取り入れられてしまいましたが。
 「業(ごう)」という概念も、仏教の概念であって、これにも"定め"の概念が含まれています。"
業とは、前世の善悪の行為によって、現世においてうける応報である。"と辞書に説明されてい
ます。つまり「輪廻転生」と「因果応報」という思想の産物であるわけです。
 これらの言葉、「運命」「縁」「業」などを、普段あまり気にしないで使っているでしょうが、ことキ
リスト教、そして自らの信仰であるアルミニアン・ウェスレアン主義の信仰について述べている
ときには、その用法に注意を払う必要があります。これらのことばは、私たちの信仰には存在
しません。これらのことばに代えて、「導き」、「摂理」、「恵み」ということばを使い、また、「因
果応報」と言わず、悪い結果には、「これこれのことをしていると、こういう刈り取りをする
ことになります。」と言い、良い結果であったら「報いを受けます。」といった表現をする
が適切でしょう。皆さんは誕生のとき神様に造られたものであって、前世というものはありま
せん。念のため。

3.聖餐式について
 司式者の資格とその根拠は?披受者の資格とその根拠?
 (回答)
 聖餐式をキリスト教の礼典として採用する根拠となっているみことばは、「そしてイエスは、杯
を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。 あなたがた
に言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲
むことはありません。』 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて
言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを
行ないなさい。』 食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流
されるわたしの血による新しい契約です。…』」(ルカ22:17〜20)と (コリントT11:23〜26)などが中心
です。

 (1)さてご質問の前半のこの礼典の執行者の資格について、聖書は言及していないようです
が、次のような箇所から類推することができます。教会が形成された当初には、この礼典の執
行者は限定されていなかったものと思われます。例えば「…そして毎日、心を一つにして宮に
集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、…」(使徒2:46)とあり、彼らは各
自の家でも主を記念するパンを裂いていたようですから、当然各家の家長に相当する人がそ
の執行者となったであろうと考えられます。
 ステパノ、ピリポなど使徒の働き6章5節で選ばれた人々は、使徒ではなく単なる執事でした
が、洗礼も授けています。「ピリポも宦官も水の中に降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを
授けた。」(使徒8:38) 当然、彼らは聖餐も執り行っていたと考えられます。
 教会がその形態、殊に牧師、監督と信徒という区分の形成がなされるとともに、教会を預か
っている牧師、監督といった人々が聖餐を執り行うようになったであろうと推測されますが、聖
書だけではその判断は困難です。
 カトリック教会の形成とともに、すべての宗教行事は司祭の手によって行われるようになりま
した。宗教改革後もそのあり方が引き継がれたといえます。
 結論として、聖書は聖餐の執行者の資格について言及していませんから、教会がその規約
を定めて実施すればよいといえます。聖泉連合では、規約は至って基本的な内容しか定めて
おりません。潔め派の教会が行ってきた慣習に従っているというのが実情で、牧師を教師と正
教師(教職)に区分し、正教師だけが洗礼、聖餐、祝祷を行っています。これは連合に諸属す
る牧師の間で実施されている旧教団から引き継いだ内規であると考えられます。
 この牧師、監督が礼典の執行者を務めることは現在の教会に相応しいといえます。牧
師、監督について、聖書は「監督はこういう人でなければなりません」(テモテT3:2〜4)とその相
応しい姿について述べています。
 
 (2)披授者の資格つまり誰が聖餐に与ってよいかという問題についても、聖書は明確にはし
ていませんが、イエス・キリストを信じ、教会に加えられたすべての人がこれに与っていたと考
えられます。そのような中でコリントの教会に対して、「したがって、もし、ふさわしくないままで
パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。で
すから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだを
わきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」(コリントU
11:27〜29)という警告が発せられています。この警告の前に書かれていることは、教会内の不
一致、分裂、分派が引き起こした聖餐式の乱れです。パウロはそれを「神の教会を軽んじ、貧
しい人々をはずかしめたいのですか。」(コリントT11:22)と詰問しています。この問題は「もし兄弟
に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、
出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさ
い。」(マタイ5:24)というキリストの教えを忠実に守る人が相応しいということを示しています。
 またユダ書にもこう書かれています。「・・・彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。・・・」(ユダ
12)その前後に書かれていることは、「カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、
コラのようにそむいて滅びました。」(ユダ11)です。自分よりも優れた献物を捧げたアベルを嫉ん
で殺したカイン、モアブの王からの報酬を目当てに荒野の旅をしていたイスラエルの民にモア
ブの女たちとの姦淫を提供させて陥れたと推測されるバラム、傲慢になりモーセに逆らったコ
ラがその代表として記されています。
 聖餐に与るには前述のような罪をさけ、真摯な信仰生活をしていることがその内的な条件で
あるといえます。しかし、内的なものというものは他の人には容易に判断がつくわけではありま
せんから、本人のあり方にまかせられるでしょう。
 以上から、聖餐に与る資格を、キリストを信じて教会に加えられていること、通常洗礼を
受けて教会員になっていることとしている慣例は、適切であるといえます。
 
(先月回答する予定であった、「聖潔とは何ですか?」という問の答えは次月にします。今月皆
さんがもう一度答えてみて下さい。)



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