「同労者」第12号(2000年9月)                         目次に戻る 

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1999.7.27 から
ローマ人への手紙(第12回)

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22〜
23)


 前回は、ローマ人への手紙14:1〜15:13について、「弱い者への配慮」との視点から、以下の
6項目に整理して学びました。
 @信仰の弱い人(ローマ14:1)とはどのような人のことをいうのでしょうか
 A信仰の弱い人の地位についての見方
 B信仰の弱い人の扱いに対するパウロの勧め
 Cその理由
 D積極的生き方についての勧め
 Eこの箇所のまとめと祈り(ローマ15:4〜13)

 前回の結びのことばを再述します。
 信仰の弱い人を受け入れるには、受け入れる側も受け入れられる側も、忍耐を必要としま
す。ですから忍耐と励ましの神の助けが必要です。キリストはその手本を示されました(ローマ15:
8)。そのようにして心を一つにし、声を合わせてイエス・キリストの父なる神をほめたたえる(ロー
マ15:6)ことができます。「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入
れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(ローマ15:7)


4.4結実の教理に関する考察
 「結実」「品性」「成長」「報い(報償)」といったことばは、違うものを指しています。キリスト教
はことばを大切にします。もちろん、それは人のことばが、その人の心を顕わすことを言ってい
るのですが、ことばの使い分けも大切にする必要があります。聖潔の教理に考察を加えたのと
同様に、結実の教理についての考察をします。そして、これまで学んだ事柄の中から、以下の
項目をもう一度整理してみましょう。
・品性と結実の関係について
・教会と結実の関係について
・信仰の課題と結実の関係について
・摂理を信じて光に歩むこと
・聖潔と結実の関係について


4.4.1 品性と結実の関係について
 はじめに、「品性」と「結実」の関係を考えてみましょう。
 第6回目の学びの際に、実とは「品性」ではなく「行い」であることを述べました。これは、結実
の教理を考察する上において、大切なことなのです。
 補足しますと、品性は、聖霊によって与えられるものです。「私たちに与えられた聖霊によっ
て、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5) しかし、御霊の実は与えられる
ものではありません。それは、与えられた自由意志をもって行われなければなりません。罪が
人の行為であるように、御霊の実も人の行為でなければならないのです。それが聖霊の実、御
霊の実と呼ばれる理由は、人が聖霊に導かれて行うことであるからです。
 「種は、神のことばです。…良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心
でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:11〜15) 
ここに単に、行為、業、所行などと言わず、結実という理由があります。
「実」が人間の行為であることは、バプテスマのヨハネが、「悔改めの実」としてこういうことをせ
よ、と人々に教えていることからも分かります。例えば、ヨハネは「下着を…分け与えなさい。…
決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。…金をゆすったり、無実の者を責め
たりしてはいけません。」と、「悔改めの実」と自分が述べたことの内容を説明しています。この
「実」が人間に帰されることは、イエスの最後の晩餐の説教にも述べられています。「わたしは
ぶどうの木で、あなたがたは枝です。…ならばそういう人は多くの実を結びます。…あなたがた
が多くの実を結び…あなたがたが行って実を結び、そのあなたがた実が残るため…」(ヨハネ15:1
〜17)ヨハネの福音書のこの部分を読めば、父なる神が実を結ぶための環境を整えて下さるこ
と、実を結ぶためのいのちが御子イエス・キリストから供給されること、実は人間が結ぶもので
あって、その内容は「あなたがたが互いに愛し合うこと」すなわち行いであること、その最高の
ものは「友のためにいのちを捨てること」であることが分かります。そしてさらにやがて助け主、
聖霊がおいでになり、その内容をあなたがたに分からせてくださるということをイエスは続けて
述べておられます。
 この結実こそ、審判の日に、「良い忠実なしもべだ。」(マタイ25:21)また、「あなたがたは、わた
しが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、…」(マタイ25:35〜36)と言って頂けるか否かを
決定するものであって、人の側の功績として数えられるものです。
 第5回目の学びの際に、聖潔は「聖霊の満たし」の他に、人間の内に以下の3つのことをもた
らすことを述べました。
  @聖絶、汚れの除去(純潔化)
  A献納
  B神の聖の付与
 これらは救いの恵みと同様に、"十字架の贖いによって"信じた者に"行いなしに"与え
られるものです。繰り返しますが、「聖潔」は、「救い」と同様に、信仰によって行いなしに
与えられるものです。
 「品性」は、この神の「聖」の一部として、聖潔の経験と共に与えられるのです。
 神が人間に与えられるタラント(マタイ25:
14〜30)は、生まれつきの才能のみではありません。生まれつきの才能はこの世のレベルのこ
とです。神の教会においては、むしろ後から与えられるものの方が大切なのです。
 新生のいのちが、神の性質の一部を人間にもたらすものであることは、既に私たちの経験し
ていることです。救われる以前には出来なかった忍耐、寛容、親切、義しく生きることなどを、
救われた後にはできるようになった自分を見いだします。
 聖潔はそれを一層豊にもたらします。これが、神が人間に与えられるタラントです。
 私たちはそのタラントを用いることが要求されています。つまり実を結ぶことがそれです。実
を結ばなかった実例として、ユダヤ人がありました。あなたがたは、ユダヤ人のようにならない
ようにとの警告がありました(ローマ11:20)。神の性質に与り、愛(コリントT13:4〜7)を豊に与えられ
た人、聖霊の賜である、知恵、知識、信仰、などなど(コリントT12:4〜11)を与えられた人は、多く
のタラントを預けられたのですから、多くの実を結ぶことを要求されます。
 結実は、私たちに"行いなしに"与えられるものではなく、私たちがどのように"行う"か
の問題であることが分かります。
 善い実を結ぶとさらに豊に善い品性が与えられます。(マタイ25:28〜29、ヨハネ15:2)

4.4.2 教会と結実の関係について
 上に述べたことは、"愛する"、"忍耐する"、といったことを行うことが結実だということです。
これらを行うには、「愛を要する相手」、「事態」、と「その事態に対処せよとの"神からの任命"」
が必要です。神の任命、あるいは使命とも言えますが、それを受けずに善き業を行うことはで
きません。
 そのためパウロは、はじめに献身(ローマ12:1)と心の一新によってこの世と分離していること(ロ
ーマ12:2)を勧めました。神の任命はこの条件を果たす人に与えられます。
 次に、"慎み深い考え方をしていなさい。"(ローマ12:3)と勧めました。慎み深い考え方とはどの
ようなものなのかに触れ、"キリストの肢としての、自分の身分、地位、役目を理解し、その視
点で物事を考えなさい。"(ローマ12:4〜5)と説明しました。それが、教会の中でよい働きをするこ
とが出来る前提条件です。
 そして神の任命に従って、業を行いますが、この手紙は、個々の具体的内容の指示ではあり
ませんから、一般論で述べています。(ローマ12:6〜8)
 私たちが当面する事態は、もっと個別の問題になりますが、教会の中に取り組むべき使命が
置かれています。私たちがその使命に取り組むとき、教会が建て上げられるのです。神が誰
かを特別に選んで慈善を行わせるといった場合以外、不特定の人に対する慈善などに使命が
あるとは考えられません。神が関係を持たせて下さった特定の人との間において、課題の取り
組みが行われますが、私はそれを"教会の関係"と呼んでいます。私たちと教会の関係に入っ
てくる人は、この教会の兄弟姉妹あるいは他の教会も含めての信者だけではなく、時には不
信者も入ってきます。教会の関係には、神が私たちと信仰に関わる関係に入れなさる人々全
てが含まれるますが、もちろんその中心は教会にあります。ローマ人への手紙12章4節から8
節に書かれていることは、教会の関係の直接教会に関わる部分です。私たちには、牧師と信
徒ということが最も身近です。教会の中にある家庭、兄弟姉妹の間、教会を訪れる求道者と信
者の間にも具体的関係が存在します。また、私たちが教会外で接する人々との間にも、事態
によって教会の関係が生じます。
 人と人との関係には「この世の関係」もあります。私たちは「教会の関係」と「この世の関係」
の違いを見分けることが必要です。私たちは、教会の関係の中において、聖霊の実を結ぶこと
ができます。

4.4.3 信仰の課題と結実の関係について
 私たちが信仰によって生きていこうとするとき、事を進めていかなければならない事態、ある
いは困難と感じる様々の事態に当面しますが、それらの事態をどのようなものと考えるかは、
信仰生活をしていく上において大切です。
 直接的には自分自身の内側の問題でなく、外からやってくる問題、すなわち、病気の場合、
お金が不足の場合、お金があってその使途をどうするかと言う問題、職業の問題、結婚の問
題、住居の問題、子どもを育てる問題、周囲の人が煩わしい場合の問題、などなど数多くの問
題が出てきますが、それらをどのようにしていくのでしょうか。単にお金がない、就職先を見つ
けたい、結婚したい、病気を癒されたい、などなどだけならこの世の人と何が変わっているでし
ょうか。キリストを信じているし、教会にも来ている、しかし生活を行っている根本にあるものは
この世の人と同じ、という事例もあることでしょう。ですからはじめは、これらの課題をこの世の
原理で行っていること自体が信仰の課題だと言えます。
 "救われた"、"潔められた"、と言っても、生活の問題の全体に訓練が行き届いたのではあり
ません。そのはじめは、これまで通り"この世の原理に従って"生活を続けるのが普通です。そ
こに、光が投じられて"このことについては信仰によって生きていなかった。"と気づき、一つ一
つ信仰による生き方に変えさせて頂く、そこに信仰の訓練があります。
 信仰によって生きるとは、職業を例にとって述べるなら、「職業と信仰が重なる、職業と信仰
が一つとなる、信仰によって職を行う」というように表現ができます。同様に他の問題も、職業と
言うところをそのことばに置き換えることができます。
 職業が確かに信仰の上に成り立っている、信仰によって神の導きを得て結婚した、神の導き
にある家庭を営んでいる、病気の問題を聖霊の導きを得て取り組む、お金についてそれを得
ること、蓄えること、使うことに信仰の納得が与えられたものとなっている、そのほかすべての
問題が同様に神の手のもとにあるところの信仰生活が営まれることが要求されているのです。
私たちはその全部ではなくて、ごく一部について、信仰によってそれを行っている証詞を持って
います。ですから、この世の原理で生きているものがここにもあったと気づかさせて頂き、信仰
によって生きるものを増やさせて頂くことが大切です。
 外から来る問題を述べてきましたが、自分の内側の姿にも同様に課題があります。自らが行
っている行為について、これは罪だと心に責められること、悪しき習慣であると思うことがある
場合、それを潔いあり方に変えさせて頂かなければなりません。潔めは霊と心の内にある"神
に不服従であるものを全く除くこと"であって、習慣、癖、思念など、すべての心の内側の問題
が一足飛びに完全なものとなってしまうのではありません。それらは生活上の問題同様、一つ
一つ光を与えられて、変えさせて頂くのです。
 信仰によって歩んでもなお、神は私たちの歩みの中に課題を置かれます。
 "祈ったら課題が取り除かれた、その課題が無くなった。"という信仰のあり方は、私たちが最
も多く願っていることであって、そのあり方もよしとされるでしょう。それとともに、"課題は神が
私たちの結実のために備えられた場である。神の助けを得て私たちはそこで善き実を結ぶ。"
ことを考えなければなりません。
 使命を与えられてそれに取り組むと、そこにまた信仰の課題が出てきます。それはその使命
に与らなかった人には与えられないものであって、聖霊の実を結ばせて頂くに至るものです。
信仰の課題は私たちに真剣な祈りをもたらします。それで、私たちは信仰によって生きること
ができるのです。

4.4.4 摂理を信じて光に歩むこと
 イエスは「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)と言われ、「光がある間に歩きなさい。」(ヨハネ12:
35)と言われました。ヨハネは「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるな
ら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨ
ハネT1:7)と言いました。
 では、光とは何でしょうか。しかし、ここでは光についての詳細を述べることをやめ、光が私た
ちの結実に果たす役割に少し触れます。
 前述の信仰の課題は沢山あるのですが、神は私たちにそれをいっぺんに解決させようとは
なさいません。そうではなく、一つの課題を示し、それに結論がでたらまた次に進ませなさいま
す。その結論は私たちの応答であって、必ずしも"善かつ忠なる僕よ!"と褒めていただけるよ
うなものではない場合もあります。しかし、その答えられる期間というものがあって、それが過
ぎてしまうとそれはもはや取り組みの対象では無くなってしまうのです。カデシバルネヤでイス
ラエルがカナン侵攻をためらったため、神が40年後とすると決定されたにも関わらず、一部の
人々が攻め上って敵に追い散らされた記事(民数記14:40〜45)がそれを示しています。
 「今、私が取り組む課題は何であるか?」それを示すのが光です。ですから、光に歩むことが
結実の道、成長の道なのです。神は摂理によって、「今、私が取り組む課題」に導かれます。

4.4.5 聖潔と結実の関係について
 戦いが自分自身の悪しき品性、この世の富、楽しみ、権力、名声、などへの関心、自らの欲
望や我が儘に対するものにとどまっている間は、結実の問題ではなく聖潔への入り口の問題
に取り組んでいるのです。
 たとえ、聖潔の経験があったとしても、上記のようなことが絶えず光に示されるのであるなら、
逆戻りしてまた入り口の問題を課題としているのです。
 聖潔を与えられた後の歩みは、光に歩み、使命を把握し、使命の故に生じてくる課題に営々
と取り組む中にあります。使命を放棄すると、品性は鈍り、やがて聖潔も失われることになるで
しょう。
 牧師は牧会に使命があります。愛を持って牧することをしないで牧師の潔めが保たれ得るで
しょうか。同様に、長老には長老の使命、CS教師にはCS教師の使命、親には親の使命、夫
には夫の使命、妻には妻の使命、子どもには子どもの使命、教会における若い人には若い人
の使命が、摂理によって歩む道筋の中に、ひとりひとり異なって(個人毎に別のものが)与えら
れます。それぞれが、その自分の使命を果たす中に潔めが保たれます。そして、使命を果た
すとき私たちは潔めの"豊かさ"を経験することができます。その豊かさは次のように表現され
ています。
 「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知
らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。あなた
の神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉
があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリ
ーブ油と密の地。そこは、あなたが十分に食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は
鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたは食べて満ちた足り
たとき、主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」(申命
記8:5〜10)
 これは、今の私たちにとっては、この世の富が豊に与えられることではなく、私たちの霊と心
がそのようなものとなることを言っているのです。
 ここに、キリスト教の神髄があります。

<今回の学びの結び>
 成長とは結実の積み重ねによって、人格がよりよい品性を与えられたものに変えられていく
ことを言います。光の中を歩むと結実し、成長することができます。光とは別に結実し、成長す
ることは期待できません。人が罪を持っていると、最初にその罪に対して光が与えられます。で
すから、潔めを与えられるまでは、潔めに至ることが唯一の成長です。潔めを与えられると、
結実と成長の範囲や奥深さなどが格段と広がり、神の国の豊かさをそこに見ることができま
す。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強
くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のう
ちに住んでいて下さいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、す
べての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つよう
になり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の
満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:16〜19)

 

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