「同労者」第13号(2000年10月)                        目次に戻る

証 詞

私 の 信 仰 の 原 点
静岡聖泉キリスト教会 牧師  高橋 芳昭


(見事な「同労者」の編集や印刷についていつも感心して拝見しています。
 今年の春頃から編集の野澤さんよりFAXで何回となく熱心に原稿の依頼がありました。申し
訳なかったがそのままにしていました。にもかかわらず執拗な原稿の依頼を頂き、遂に恐縮し
てと言うか根負けしてというか野澤さんの信仰に圧倒されて書くことになりました。「聖泉誌」の
投稿の兼ね合いからの躊躇もあって失礼したわけです。言い訳は、このくらいにします。ともあ
れ、このような機会を与えられたことを感謝しています。
 「編集」よりの依頼は、「証し」ということでしたが、今回は私の救い・回心を今の私がどう見て
いるかを書いてみることにします。)



 私は1929年1月2日東京文京区で印刷業を営むゴク普通の家で生まれた。
1945年(終戦の年)の3月、今の東京都立富士見台高校(当時は、東京府立四商)を、戦争
のため卒業を1年繰り上げて4年で卒業し、東京都大田区にある、当時戦車を造る三菱重工
業東京機器製作所の営業課に就職した。
 戦争末期の混乱の中、家業であった印刷業も国家による強制的廃業となり、終戦の年の3
月10日の東京大空襲による家屋・家財焼失で、家族は東京奥多摩に疎開した。私は一人会
社の寮に入った。家族の疎開先での生活は母親を中心にした家族五人の生活で、大変な苦
労があったようである。(その時代はどちらもそれなりに大変であった。)私は私で、混乱前まで
はたいした苦労もせずに育ったので、世の中のことをまったく知らず、いきなり一人でほとんど
着のみ着のままで(当時の社会情勢でやむをえなかった)社会に出ての仕事・生活は、これま
た容易ではなかった。相談する人も無く孤独そのものであった。そんなことで自分のことで精一
杯、苦労した母や弟たち家族に協力できなかったことは、今でも自分をふがいなく思っている。
その三菱にいる間に父を失った。母の苦労が倍加したわけである。1948年の12月に、故が
あって遠縁になる東京の荒川区南千住にあった履物製造卸業の商店での住み込みの生活が
始まった。
 なれない環境での生活の中で「生きる」事への何かを求めていたような気がする。周りの若
者達の生き方には何かなじめず、より高いものを求めていたようである。享楽の世界になじめ
得ないものが私にあった。そういう人間性のようなものは、生まれ育った環境によるものなの
か時々考えることがある。
 或る日、仕事のため自転車に乗って荒川区の三河島のあたりを走っていたとき、一軒の家
の塀に貼ってあるポスターが目に入った。荒川キリスト教会の開設特別伝道会の案内であっ
た。探していたものを見つけたかの思いであった。1948年5月25日夜、(19才)期待と不安
の中、初めてキリスト教会を訪れた。社会情勢とはいえきわめて不安定な生活の中で、無我夢
中で確たる人生の希望も将来の夢も無く過ごしていた私の心の中では、その心の空虚を満た
す何かを探していたようであった。
 工場の一部屋で、板の床に筵(むしろ)が敷いてあった。がしかし、その雰囲気に私の心は
引き込まれていった。今にして思えば自分の求めていたものがそこにあったという思いであっ
たようだ。それまでの人生で経験したことのない文化・思想があった。カルチャーショックとでも
言うような興奮があった。特別な何かがあるわけでもないのにそこにある明るさ、温かさ、喜び
は他にないものであった。私が今まで触れた人々とは違った人生の価値観に興奮し教会に通
い始めた。その当時は今のように整理してのことではなくただ教会に行くことが楽しくて行って
いた。7月19日、ハッキリした認罪も回心もなく洗礼を受けた。それでもうれしく、周りの人々に
話をしたようであった。
 しばらく通ううち、だんだん感激が薄らいできた。集会への出席に間があくようになってきた。
 信仰の先輩たちのお祈りや証詞での神の前に罪を悔い改める姿勢や、ひたすら幼子のよう
な深い信頼をもって神様に叫び求める姿勢は、受け入れがたいものであった。特別に踏み外
した生き方をしてきたわけでもなかったので、いろいろな人の罪の告白や神様に自分の弱さを
訴えるお祈りを、傲慢にも冷ややかな目で見ていた。
 その年の10月15、16日に、特別聖会が開かれた。その夜、私の心の目は開かれた。その
夜の聖会は、始めの賛美からひきつけられる集会であった。今でもそのとき経験した心の高ま
りのようなものを思い起こす。そして静かに思い巡らす時、そのときの霊的感動と充実感は、
その後の信仰生活の原点になったと言いうる。その感動は、まさに聖霊の御働きであったよう
に思う。今でも、集会にしても個人の祈りの中にしても、その時と同じように味わう霊的高揚
は、私の生きる力となっている。
 その夜、私の魂は砕かれた。賛美は私の魂を揺さぶっていた。この夜私の神様に対する姿
勢は、それまでの四ヶ月余りの集会の時とは違っていた。聖書の御言葉が心を捉えた。司会
で開かれたと記憶するが、
・・ 詩篇16篇11節「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたのみ前には
喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」・・
であった。
 人間として自分の本当の姿を神様に示された。自分が何者であるかを知らせられ、傲慢を砕
かれた。自分の生きている道は、およそ「いのち道」とは程遠いものであると思った。今思えば
ヨブ42章にあるヨブの告白が強く頷かれる。心を砕かれて祈る私の姿がそこにあった。傲慢
にも批判的であった信仰の先輩には申し訳ない思いであった。
 私は確かに生まれ変わった。それまで教会に通っていたのはそこにあった今まで経験したこ
とのない、触れたことのない精神的文化に引き付けられていただけの事で、その源が何である
のかも、その源を自分のものにしなければ自分もその世界に入れないことも知らなかった。当
然頭初の感激は、ヨハネ4章13節にある主のお言葉のように「すぐ渇く水」に過ぎないもので
あったから、日が経つにつれて教会からは足が遠ざかった。
 しかし、その日から教会は自分の魂の生まれ故郷となった。教会に行くことは自分のいのち
の源に帰るようなもので、楽しみと喜びでいっぱいであった。あらゆる集会に教会の集会は勿
論、家庭集会に、路傍伝道に、早天祈祷会に出たように記憶する。にぎやかな街角に立ち太
鼓を叩き、タンバリンを叩き、提灯(ちょうちん)を持ち、万灯(まんどう=木材で四角い枠を作り
それに紙を貼り案内の字を書いたもの)を持ち、今思えば何をしゃべったかと思うが、そんなこ
とをした事のない私が、たぶん大きな声を出して証詞もしたと思う。冬の冷たい朝、二、三人の
早天祈祷会に進んで出席した。その頃は戦後の物のないときで、凍(い)てつく冬の早朝に春
のような服装で手袋などもなく自転車に乗って通ったことを昨日のように思い起こす。
 私の心を燃やすものは、主にあるいのち以外には何もなくなった。それまでの孤独、不安は
なくなった。教会一筋になった。このようにして私のクリスチャンの人生が始まった。翌1949
年の1月、当時の団体での新年聖会宣教会で、何かに押し出される様に献身を表白した。19
53年伝道者としての学びと訓練を経て伝道と牧会の人生を始め、今日に至った。途中1952
年、「我に居れ」ヨハネ15章4節(文語訳)のお言葉により、すべてを主にお委せする信仰的転
機も大切な経験であった。
 「信仰の原点」はまさに1948年、1952年の経験であるが、その後の人生において、社会
的知識と経験、そして人間的素養と教養の乏しさ不十分さは信仰生涯の妨げになったことは
確かであり、考えさせられる問題である。
 私の乏しい宗教体験ではあるが、神様はこの様な者に与えてくださった「いのち」の経験を心
より感謝し、主の御名を心いっぱい賛美する。これは私の宝である。
 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(コリントU4:7)




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