「同労者」第13号(2000年10月)                             目次に戻る
 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL & FAX :  022-266-8773
e-mail


 今月は、まず宿題になっている「聖潔とは何ですか?」という問いに対する回答例を述べて見
ます。

1.聖潔とは何ですか?
(回答例・・作成者:野澤)
 「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれ
る。」(ゼカリヤ13:1) これが聖泉連合創立の際のみことばであって、そこから「聖泉」という名称
がつけられています。「聖潔」は聖泉連合の目指すもの、その旗印そのものです。ですから、聖
泉連合に所属する私たちは、聖潔が何であるかを知り、聖潔に与り、聖潔に生きることを求め
られています。聖潔はそのように重要なテーマです。

 人間は罪の性質をもって生まれ、やがて自分で罪を行います。「同労者」4号(本年1月号)に
述べられているように、罪とはキリストの律法に対する意志的違反です。なぜ罪を犯すかという
と、罪の性質が人間の内にあるからです。
 罪の性質は生まれつきの人間の霊の本質であって、神に対する反逆、神の支配の拒絶、神
への不服従、不従順であり、自分自身に対する権威を主張し、神の権威を認めないことなので
す。
 罪と罪の性質に対して神様はこれを区別し、それぞれに救いを備えて下さいました。
 罪に対しては「赦し」です。赦された結果、人は義と認められるのでこれを「義認」といいま
す。この「同労者」本年4月号のQ&Aに述べられていますが、罪に対する救いが、一般にキリ
スト教の「救い」と呼ばれているものであって、罪の赦しすなわち犯した罪に対する処罰(審き)
を赦免されること、新しい霊のいのちが与えられ聖霊が心の内に住んで下さることです。つまり
救いは「義認」と「新生」という二つの事柄で顕わされます。
 罪の性質に対して神が備えて下さった救いが「聖潔」です。
 救いは、未だ救われていなかった状態から救いの状態に「わたくしは何年何月何日に救わ
れました。」と表現できる転機的経験を通して入れて頂けます。同様に聖潔も、潔められていな
かった状態から、「私は何年何月何日に潔めて頂きました。」と言える転機的経験を通して潔
められた状態に入れられます。ですからこれを「第二の転機」と呼びます。
 罪の性質が除かれることすなわち「罪性の潔め」がまずなされます。それは、人が自分の霊
の内まで神の権威に服することであって、「私はキリストとともに十字架につけられました。」(ガ
ラテヤ2:20)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅び
て、…死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:6、7)と記されている内容が
それを示しています。聖書に「古い人」「肉の性質」「肉」「生まれつきの性質」「生まれつきの
人」などと表現されているものはすべて同一のことをさしているのであって、「罪の性質」とか
「内なる罪」とか言われているものです。その罪の性質を潔めて頂けるのです。
 古い人に代わって聖霊によって新しくされた人の内に、聖霊が住んで下さること、すなわち
「聖霊の内住」が伴います。聖霊が臨まれてこれをなされるゆえに、それは「聖霊のバプテス
マ」なのです。聖潔の時の聖霊の内住は「聖霊の満たし」とも呼ばれるように、救いのときとは
違って聖霊がその人のすべてに対する権威者となります。しかし、聖霊はその人を助け、その
人を教え導きますが、その人の意志に反することは決してなさいません。聖霊は「助け主」とし
て内住されます。
 心と霊のうちの凡てが神の支配・権威に服するため、これは「全き献身」です。神に献げられ
たものは、神の所有となり、神の聖に与り、「聖別」されたものです。聖くなかったものが聖くさ
れますから、それは「潔め」であり「聖化」です。
 その時、もはや心と霊の内に神の光りの前に隠すものがありません。それがその人に「自
由」をもたらします。潔められていない人は、心の内に神に不服従の部分を残していますから、
それを隠す必要があります。それが自由を阻害しています。潔めはその必要を除き、全き自
由を与えます。
 神にすべてが献げられた心には、己の利を先にすることがありません。ですからその人はす
べての行いの「動機が完全」なのです。ですからこれは「クリスチャンの完全」と呼ばれます。聖
霊に導かれて生きる人は、その動機が愛なのです。ですから「全き愛」の人です。
 聖化はその最初の転機であって、「聖潔の生涯」がそれに続きます。
 「私たちも光りの中を歩んでいるなら、…御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめま
す。」(ヨハネT1:7)

今月の質問・・まず皆さんが答えを考えてみて下さい。
1.どのように考えたら、「聖潔」の標準を高過ぎもせず低すぎもしないように把握できますか。
2.潔められた人は罪性の潔めが与えられたのに、どうして罪を犯すことがあるのですか?



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