「同労者」第13号(2000年10月)                            目次に戻る 

論  説
 ― 本 質 を 見 抜 く 力 を 備 え よ ―

「知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のような
ものである。…わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには限りがない。
多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:11〜13)
「事の全体の帰する所を聴くべし。」(同12:13、文語訳)


 "違いが分かる男"とは、某コーヒーメーカのコマーシャルのキャッチフレーズですが、その意
味するところを福音に当てはめると大変重要なものになってきます。
 "説教を聴く姿勢、心構え"ということを例にとってみましょう。
 説教を用いなさるのは神でありますが、説教そのものは人が立てられてなされます。人が立
つことのゆえに、説教者の持っているものが一緒にあらわされます。単に説教者の宗教体験、
力量や精進だけでなく、様々の理由のゆえに、説教準備の時間がなかったとか・・といったこと
もやはり影響します。また聴衆がどれだけの理解力を持つか、よく聴いているか、他のことを
考えながら聞いているかとか居眠りしているか、といったことも説教を左右します。
 確かに長い期間が経つうちに、説教者は聴衆の如何によって変わっていくでしょう。しかし、
聴衆は説教がなされている時に、その場で説教を変えることはできません。ですから、聴衆に
とって大切なことは、神が立てられた説教者の語るその説教から、いかに恵みをうけとるか、
であるのです。恵みを受け取ることができるか否かは、説教を聴く聴衆の心懸けによって、大
いにかわります。
 説教を聴くに当たって最も重要なことは、そこで語られる恵みの言葉に感動し、心に納めるこ
とです。メモを取るだけでもその感動が失われ、恵みを受け取り損ねることがあります。メモを
取るなといっているのではありませんが。
 先生の説教を聴くうちに、言葉の用法の誤り、くせ、例話の不適切、脱線などに気づいて気
になりはじめると、説教の本質を見失うことが多いでしょう。説教が長いの短いのとか言ってい
ることも同じように説教から聴く人の心を引き離します。
 ある人はある説教から豊に恵みを受けますが、別の人は同じ説教を聞きながら全く恵みを受
けずにかえることがあります。そこに聴く者の違いがあります。
 この違いは、ありとあらゆるものについて存在します。
 福音は、同じ教会の場の中では、太陽や雨風のように一律に提供される面があります。良い
畑はその天候の中で、良い実を実らせるのです。事の本質を見分ける力の必要を感じないわ
けにはいきません。




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