「同労者」第13号(2000年10月)
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めです。「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠さ れるのですか。」(詩篇10:1)
聖書は信仰者の勝利や感謝ばかりでなく、悩み・苦しみ・また切々たる涙の訴えをはばから
ず記していますが、この詩篇もその代表的な箇所です。祈っても何か空しく感じ、聖書を開いて も心に入って来ず、自ら奮い立とうとしても力が抜けていくような何とも言えないやり切れない 感じ。時として信仰者にもそんな冷え冷えとした心になることもあるのです。一概に不信仰と片 づけるにはあまりにも答えにならない腹立たしさ。そんな時「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお 立ちですか。苦しみのとき、なぜ、身を隠されるのですか。」と叫ばずにはおられない。私は申 し上げたい。クリスチャンにもそんな時があるのです。時には牧師である私もふと底知れない 重い心の泥沼に足を引きずられる事があるのです。そんな時、急いで脱出しようとせず「主よ。 何故ですか、なぜ?」とありのままを主の前に持ち出し訴えるのです。厚い雲が少しずつ晴れ ていくように主は、そんな私をいつくしんで「疲れし者よ。われに来たり重荷を下ろして疾く休 め」と冷えた心を包んでくださるのです。牧師でありクリスチャンである気負いも衣も脱ぎ捨てて 幼子のごとく主の手に憩う時、大きな安らぎを得るのです。「なんだ、牧師のくせに、クリスチャ ンのくせに」と言われてもいいじゃありませんか。私たちは無意識の中に弱さを隠くし背伸びし たがるものです。そこにストレスがたまるのです。考えて見てください。あなたが一番リラックス できるのは何処ですか。わが家です。わが家でもトイレです。そこは誰にものぞかれません。ま たお風呂です。身も心も裸になれるところです。寛ろげるのです。私たちは寛ろげる場所が必 要なのです。悩みをぶちまけて「オー主よ。何故?」と叫ぶことは「アバ父よ。」と言うことなので す。そんな叫びを馬鹿にしないで受け止めてくれる所がキリストの教会なのです。主イエスさま は、そんなあなたを愛しみのまなざしで抱いてくださるのです。 |