「同労者」第14号(2000年11月)                        目次に戻る

証 詞

一 枚 の さ し 絵
荒川聖泉キリスト教会  永岡 弘行


 私は、さし絵のある聖書や新聞小説が好きです。パッと目に入る印象で、読んでみようという
気持ちが起こります。私の救われたいきさつを、さし絵のある書物を思い浮かべながらご紹介
しようと思います。


 私は日本のどこにでもいるような青年でした。ある時キリスト教のパンフレットをもらうことによ
って、教会に行くようになりました。メッセージを聴いているうちに、人生に神様のことを考えな
い生涯は、"的外れの人生"であることを教えられました。尚メッセージを聴くと、以前はそれほ
ど思っていなかった親に対する態度、又弟や妹についての思いやり、職場での上司に対して
の態度等に、良くなかったことのあることに気がつきました。このようなことは、神様の前に罪
であることを教えられました。そして心のこと、人には魂のあることに気がつきはじめました。一
生懸命努力しているにもかかわらず喜びがなく、平安がなく、不安になること、失望することな
ど気持ちにむらがあることは、神様の前での罪が原因であることを教えられました。世の中で
罪を犯した者には処罰があるように、神様の前に罪を犯した者は死ななければならないことを
知りました。このことのためにイエス様がお生まれになり、罪を犯した者の身代わりとして十字
架にかかって死んでくださり、そして三日目によみがえって下さったことを教えられました。自分
のこれまでのことを振り返ってみると、一つ一つうなずくことをが出来ました。両親に弟妹に、会
社の上司にお詫びの手紙を書きました。そして赦してもらい、洗礼を受けることが出来ました。
これで良いのだとの大きな喜びと平安が与えられました。
 半年くらい経ち、牧師さんのおすすめで結婚するように導かれました。結婚の話が段々と進
んで行くにつれて、「自分は本当に救われているのだろうか?」との不安に悩むようになりまし
た。結婚を1ヶ月後に控えた頃、特別伝道会が開かれました。最終回の夜、救われたい人は
いませんか、とのおまねきがありました。婚約者の手前、今さら救われていなかったとも云え
ず、大いに悩みました。体中から汗が出、長い時間が過ぎるように思えました。「救われたい人
はいませんか。」の最後のことばに手を挙げることができました。「決断の手」でした。牧師さん
が開いて下さったみことばは、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わな
い者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)でした。私はそれ
まで福音を「知っていた者」で、「信じる者」ではありませんでした。
 その時の情況がどうであれ、神様のおまねきに素直に手を挙げる姿が、最初の絵であり、私
のクリスチャン生涯の幕開けでした。
 




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