私は、さし絵のある聖書や新聞小説が好きです。パッと目に入る印象で、読んでみようという 気持ちが起こります。私の救われたいきさつを、さし絵のある書物を思い浮かべながらご紹介 しようと思います。 私は日本のどこにでもいるような青年でした。ある時キリスト教のパンフレットをもらうことによ って、教会に行くようになりました。メッセージを聴いているうちに、人生に神様のことを考えな い生涯は、"的外れの人生"であることを教えられました。尚メッセージを聴くと、以前はそれほ ど思っていなかった親に対する態度、又弟や妹についての思いやり、職場での上司に対して の態度等に、良くなかったことのあることに気がつきました。このようなことは、神様の前に罪 であることを教えられました。そして心のこと、人には魂のあることに気がつきはじめました。一 生懸命努力しているにもかかわらず喜びがなく、平安がなく、不安になること、失望することな ど気持ちにむらがあることは、神様の前での罪が原因であることを教えられました。世の中で 罪を犯した者には処罰があるように、神様の前に罪を犯した者は死ななければならないことを 知りました。このことのためにイエス様がお生まれになり、罪を犯した者の身代わりとして十字 架にかかって死んでくださり、そして三日目によみがえって下さったことを教えられました。自分 のこれまでのことを振り返ってみると、一つ一つうなずくことをが出来ました。両親に弟妹に、会 社の上司にお詫びの手紙を書きました。そして赦してもらい、洗礼を受けることが出来ました。 これで良いのだとの大きな喜びと平安が与えられました。 半年くらい経ち、牧師さんのおすすめで結婚するように導かれました。結婚の話が段々と進 んで行くにつれて、「自分は本当に救われているのだろうか?」との不安に悩むようになりまし た。結婚を1ヶ月後に控えた頃、特別伝道会が開かれました。最終回の夜、救われたい人は いませんか、とのおまねきがありました。婚約者の手前、今さら救われていなかったとも云え ず、大いに悩みました。体中から汗が出、長い時間が過ぎるように思えました。「救われたい人 はいませんか。」の最後のことばに手を挙げることができました。「決断の手」でした。牧師さん が開いて下さったみことばは、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わな い者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)でした。私はそれ まで福音を「知っていた者」で、「信じる者」ではありませんでした。 その時の情況がどうであれ、神様のおまねきに素直に手を挙げる姿が、最初の絵であり、私 のクリスチャン生涯の幕開けでした。 |