「同労者」第14号(2000年11月)                         目次に戻る 

読者の広場(2)

   <お便り>
エルサレムを歩く(2)
2000年の夏

中京聖泉キリスト教会  山田 義


・テルアビブという街
 地中海に面した港市である。私たちのホテルの窓から地中海とその海岸公園が見える。エ
ルサレムに次ぐ第2の都市で経済の中心地である。ここから東50キロメートルにエルサレムが
あり、そこに国会議事堂があるから今では、首都はエルサレムということだろう。
 今回私たちが8泊したテルアビブは新興の商工業近代都市である。テルアビブは1906年ユダ
ヤ人居住地として建設されたという。1948年第1次中東戦争でイスラエルは、古代からの港市
でアラブ人が住むヤフォを占領し、翌年テルアビブに合併した。だから正式名はテルアビブ・ヤ
フォというのだそうだ。40万人ほどの町だ。
 私たちは1週間この同じホテルを拠点にしてナザレやガリラヤへ行ったり、エルサレムを歩い
たりした。ホテルの下に見える海岸公園はよく整備されている。遊歩道があり芝生があり、立
ち木を枯らさないため地中にホースが見え隠れしている。この1週間は50年来の暑さだったと
聞いた。
 傘は家へ置いてきていいが帽子とサングラスは忘れるなと大会案内書にも書いてあったが
実際に外を歩くときは帽子とペットボトルが離せない。サングラスは使い慣れていないので途
中ではずしてしまった。
 太平洋側に住み慣れた私にとっては海はおおむね東にあるので、ここへ来て海を西にして
方角を見極めるのに戸惑った。それに昼間太陽のある方が南と思っている私だが、ここでは
太陽は常に頭の上に燃えているのである。ともかく旧市街のヤフォはここから南に歩けばい
い。そこには港がある。
 旧約聖書ではヤフォ、新約聖書ではヨッパと書いてある。すなわちヘブル語でヤフォ、ギリシ
ア語でヨッパと言われる港町である。旧約時代、前4世紀頃にはペルシヤ領となり、エズラの時
代には神殿再建に当ってレバノンからの杉材は海路、ここに運ばれた(エズラ3:7)と書いてあ
る。新約聖書時代には,ペテロはこの町の皮なめしシモンの家に滞在したことがあり、現在、こ
の町にはペテロの働きを記念する聖ペテロ修道院や、皮なめしシモンの家があったとされる場
所があり、この大会参加者の中にもそこへ行ってきた人もあった。
 開会式のある水曜の早朝私たちは海岸公園の散歩道を南へ下った。元気にジョギングをし
ながら私たちを横目に去っていく人々もいる。前の晩のバーベキューの残り物が散らばってい
る。そんなところに、スイカ割りの片割れをビニール袋に入れて持って行く身なりの貧しい老女
を見た。そのテルアビブの方向にはいくつもの白いホテルが建っている。生まれた土地を発っ
て先祖の国、新しい国へやって来たが恵まれることなく路上生活を送っている人たちも多いと
聞く。公園の片隅でシマ子を立たせてヤフォの古い町を遠くにして写真を撮った。その写真に
は偶然もう一人の人影が写っている。芝生の上に毛布一枚で横たわっている男の姿だ。ユダ
ヤ人にキリストの福音を伝える運動があり日本からも何人かの牧師がそのために身を挺して
いるのを私は知っている。帰国後その先生が見せてくれたビデオには、現地のキリスト教伝道
団体がこういう路上生活者に炊き出しをし宣教している場面が写っていた。しかも場所は私た
ちの泊まったこのホテルのすぐ前のこの公園の片隅だった。

・終日遠足…ガリラヤ湖とヨルダン川
 土曜日の29日は大会会場内でのプログラムは一切なし。それぞれ希望の方面へバスで行く
遠足が組まれている。シマ子は、南の死海よりも、幾分でも温度が低いであろう北のガリラヤ
湖方面の遠足を選んだ。この49ユーロのチケットは、イエスが活動した地域を多く含んでいる。
各国からの40名ほどのエスペランティストが1日中行動を共にするのであるからバスの中では
互いに親しくなれる機会であるのだが、日本での観光バスとそんなに変わらない。バスから降
りて教会などを見ながら自己紹介する時はあったが、バスに戻れば元の席で交流は進まな
い。
 バスは自動車道を降りると曲がりくねった山を登って行く。ガリラヤ丘陵の斜面,標高350メ
ートルにある古い町。ナザレ、この地名は子どもころから母の口から聞き、聖書物語で読んだ
地名だ。だからなにか懐かしさを覚える。イエスの母マリアと大工のヨセフと少年イエスが暮ら
した町だ。バスが通るのにやっとの狭い坂道。だからバスを降りるとあとは坂道を帽子と水、カ
メラを持って案内の人について歩いた。土産物屋をあとにしてカトリックの受胎告知教会に行
く。世界でも最も美しいと言われる現代風の教会堂である。つい最近40年前の建築である。祭
壇の背後にイエスとペテロの大きな壁画が印象的だ。地階へ下りたところに、マリアが受胎の
知らせを受けた洞窟の、というか石の部屋がある。マリアが暮らしていたこの部屋を包み込ん
で建っているのがこの教会堂だ。
 ここからすぐ近くにカナがある。そこから25kmを一気に下るとガリラヤ湖。バスはガリラヤ湖
に下る途中、すぐ近くにあるカナにも立ち寄った。カナで婚礼がありイエスのことばによって石
がめの水がぶどう酒になったという記事が聖書にある。そのことを記念する教会があり、その
近くの土産物屋には、「カナのワイン」と名付けたレッテルのビンがあった。シマ子はここでお土
産に聖画を買った。会堂の正面ヨコには水がめが置いてある。私の腰の高さまである石のか
めである。結婚式をここでする人もあると聞いた。カナで結婚式、ふさわしい場所ではある。
 山上の垂訓の丘に「八福の教会」があるが、今日は中へ入れない。広い駐車場は他の車は
ない。例によって帽子と水とカメラを持ってこの教会のフェンスにそって歩き、眼下に静かなガ
リラヤ湖を見下ろす。しかし、暑い。写真撮影もそこそこにして、待っているバスに逃げ込ん
だ。
 ガリラヤ湖畔のキブツが経営する食堂で魚を食べた。しょうゆと箸があればもっとおいしく食
べられるはずだ。この海で養殖している鯛のような魚を油でから揚げしてある。食べたいもの
を自分たちで注文して自分で払う。旅行会社の添乗員がいてまとめて払ってくれるわけではな
い。慣れないドルやらシェケルやらを計算しなければならない。
 湖では船に乗った。300人くらいは乗れる船だ。広い甲板に白いプラスチックの椅子を思い思
いに並べて座る。イスラエルのボリス・コルカーさんがマイクを持ってこの辺りの地形に関して
の学術的な講義をしていたが多くの人とたちは無関心の様子だった。湖上は高温多湿で風が
ない。冷房のバスへ逃れたい。
 その対岸が、今も国連軍の駐留するゴラン高原だ。ガリラヤ湖の南にバスは回った。小さな
橋を渡ったころで駐車場に降りた。歩くと、ヨハネがバプテスマをしていたというこのヨルダンの
川で今でもバプテスマすることができる。水の中には階段や浅瀬や手すりが作ってある。上が
ったところには更衣室らしい建物も見えた。案内では、バプテスマにまとう白い服も貸し出して
いるという。私たちはズボンを上げて水に入り遊んだ。この乾ききった国土でこの大きな湖と
川。水の感触を楽しんだ。小魚が盛んに私たちの足の裏を喜ばせた。関心のある人は入れ物
を用意していって、ヨルダン川の水を採取して持ち帰るのもいい。ここにも土産店があり、バス
の時間を気にしながら迷ったあげく、聖地の写真でできたトランプが気に入って買った。
 夕方の6時ころバスはテルアビブへと向かう。太陽もずいぶん傾き景色を横から照らし出して
くれる。山の上には石で建てた住宅の群が夕日に映える。この国では建物はほとんど白い。し
かも村は高いところにある。なぜだろう。攻めてくるものから村を守りやすいからだろうか。だ
から、下の谷川から太いパイプがむき出しで上に上っているところもあった。生活が山の上だ
から、その生活排水は辺りの植物に役立つはずだ。高速道路ではバスは料金所らしいところ
を通過しなかった。無料自動車専用道路だ。道路脇にはほとんど看板を見ない。ホテルに近
づくと、夕方のテルアビブ市内では交通の渋滞があった。(つづく)




 
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