「同労者」第14号(2000年11月)                目次に戻る

巻頭言
− " イ エ ス マ ン "と 従 順 − 
仙台聖泉キリスト教会   山田 大

「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてく
ださるあなたであると、知っているからです。」(ピレモン21)


 暫く前に面白いテレビコマーシャルを見ました。ある会社の部長さんが数人の部下を引き連
れて、大名行列よろしく会社の廊下を闊歩しています。そして、「イエスマンばかりで困るな
あ。」とのたもうのですが、顔はちっとも困った様子ではなくかえって得意げです。すかさずすぐ
後ろにいた男性の部下たちは「ごもっともです。」とお愛想笑いをうかべ、"イエスマン"ぶりを発
揮しています。そこで最後尾にいた女子社員が、「部長。お言葉ですが…。」と言いかけると、
部長さんの顔色が変わり、「口答えするなー!」と怒鳴られる、その女子社員は「何故?」と落
ち込みますが、そこでそのCMのチューインガムを噛んで気を取り直す、というものでした。
 昨年から「信徒」そして役員という立場に立たせていただき、教会と自分との関係についても
う一度考えさせられております。自分一人で教会を背負っているかのように感じてしまっていた
小教会や開拓の頃。一方大きな教会の中では何かと人任せになりがちでした。「キリストのか
らだの部分」とはどのようなものか、信徒として従順とはどのようなものか、考え直さなくてはな
りませんでした。
 奥中山におりました時、あの数百戸しかない小さな集落に二つも教会がありました。当然混
乱が起きてしまうようで、間違い電話はしょっちゅうでしたし、間違って訪ねて来られた方々も幾
人かおられました。地元の人々も正確にそれぞれの教会の名前をわかっているわけではない
ようでどうやって区別しているのかと思って注意して見ていると、どちらの教会も財を費やして
教会を建てた創立者がおられるので、「〇〇さんの教会」という風に、創立者の名前で区別し
ているようでした。勿論呼ばれている方々は本意ではないですし、呼んでいる方の人々は特別
他意があって言っているわけではないのですが、その表現に私は何か危険なものを感じまし
た。教会が誰かの所有物のように呼ばれている。しかし教会はたとえ一人の人が全部自分で
会堂を建てたとしてもその人のものではなく、勿論牧師である私のものでもありません。反対に
どんなにとるに足らない者であると自分で思っていても神は教会の一端を担う事を促されま
す。その人が教会をどのようなものと考えているかは、奉仕のときの態度に表れます。今は役
員として、そのようなことがらを問われているように思います。
 今年私達の教会では、主牧が、数年前から月に一度して来られた礼拝説教をおやめにな
り、月に一度祈祷会の御用をなさる以外はすべての当務から手を引かれました。それらのこと
がらが、一つ一つ役員会の議題としてとりあげられていく時、牧師であった時には、そういった
ことがらは当然牧師が決める事のように思っていたものが信徒、特に役員の間できちんと話し
合われながら進められて行くのを見て、役員としての責任の重さを感じます。
 クリスチャンは従順を教えられます。が、それは"イエスマン"になることではありません。モー
セは、最初は拒んだ神からの使命の中で、神のはじめの御約束に堅く立ち続け、民のあまり
の頑なさに神の側がその御約束を変えようと言われた時にも神の御名の栄光のために神を説
得しました。
 "イエスマン"は、自分では何も考えようとはせず、したがって責任もとりません。神の民の従
順はそれとは違って、与えられた自らの意思において教会の荷を共に担い、責任を負いつつ
神に仕えてゆくものであると私は信じます。
 冒頭の聖句は、ピレモンが師パウロからかけられた言葉です。牧師から、そして神からこの
ような言葉をかけていただける信徒になれたら、と願っています。


 


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