「同労者」第14号(2000年11月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記(その11) −
仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納


  「異性間に真の友情はありえるか」というテーマで討論会などを開いてみたいものである。
特に教会の若い人たちの集まりでこんな話をさせると彼らの心うちを垣間見れるかも知れな
い。著しく少ない日本のクリスチャンの中で若者たちは自らの伴侶をどのように期待しどのよう
な形で結ばれようとしているのであろうか。自らと同じクリスチャンであることは、伴侶に期待す
る条件の中のどのあたりに位置するのであろうか。真の友情も真の愛情もその関係の中心に
キリストをおく意義を私たちが感じているかどうかである。それは、どのくらいこの世にのめり込
んで私たちが生活しているかを計るよいバロメーターである。サウル王もダビデ王も国家の長
としてその複雑な責任を果たす上で、民と結ばなければならない関係があった。ある者たちは
自らの王に対して最高の敬意を表してどのような状況でもついて行こうとする姿勢を持ってい
たであろう。多大な犠牲を払わなければならないとしてもイスラエル国民として国の発展のため
の当然の義務と考えるのである。またある者は、いくらイスラエルの王とはいえ、自分と自分の
家族の幸福と安全を最優先としそれが全うできないのであればお互いの関係は成り立たない
ものと割り切った。これ以外にも人間の関係を構築する条件は千差万別である。サウル王は
不可能に近い、それぞれの条件をできるだけ満たすという道を選び国民の心が自分と結びつ
くことを期待した。あながちこの取り組みも無謀ではなかった。なぜなら彼にはその資質が十
分備わっていたからである。反してダビデは、国民や自らの取り巻きとの関係の中心に神を置
いた。人と人とを最終的に結びつけその中で互いの信頼を維持し続けることは、人間業ではな
く神のなさることと考えたのである。その意味で彼は、若い時代に油注がれ彼の生活の大部分
をエホバ信仰に立脚させて形成していったのである。神が早い時期にダビデを捕らえ彼の育
成に心を用いたのは、神の大いなる恵みであった。
 前置きが長くなったが、サムエル記の登場人物で忘れていけないのはサウルの子ヨナタンで
ある。彼とダビデの友情を聖書は大きなスペースを割いて記している。「あなたの私への愛は、
女の愛にもまさって、すばらしかった。」とダビデは告白している。男にとって「本物の友情」を
注ぐ人物に出会うことは、身を焦がすほどの愛情に燃える異性に出会うこと以上に難しいこと
である。二人の出会いはダビデがペリシテの大男ゴリアテに怒りを燃やして立ち上がり、サウ
ル王のもとに召し出された時であった。ヨナタンにとってダビデは、祈り待ち望んでいた人物、
探し続けていた生涯の伴侶に出会ったようなそんな不思議な感覚があったろう。こんなことを
書くと、聖書を脚色しすぎるとお怒りを受けるかもしれない。しかし、結果的にヨナタンはいとも
簡単に自らのものになっていたであろうイスラエルの王座を彼、ダビデに譲った。私は長い間、
サマーキャンプの分科会で「知ってるつもり○○○」というクラスを開いてきた。この先どうなる
か確約はできないが、今度は「その時歴史が動いた」というのをやってみたいと思う。まれに見
るイスラエルの有能な二人がここで衝撃的に出会った。ヨナタンは父譲りの勇敢な戦士であっ
た。彼の優れた武勇を聖書は明らかに示している。イスラエル王国確立に彼の尽力は計り知
れないものがあった。サムエル記T、13−14章に詳しく記されているように強大な敵ペリシテに
対して彼は、勇猛果敢に攻め込んで勝利の糸口を開いた。この親子のコンビは最大に機能
し、輝かしい実績を生んだ。神は豊かにサウル王家を祝福して下さった。幾多の過ちゆえに神
のサウル王失格の判決はくだり、それはダビデに対するものより大変厳しくうつる。しかし、神
の豊かな哀れみはこの優れた息子ヨナタンを用いて父サウルのイスラエルに対する責任を最
後まで果たさせてくださったことにある。イスラエル歴史の中で12ある部族の歩みを追いかけて
みると実質的に部族の名を永くそれに留め、多くの祝福を受けたのはユダ部族とベニヤミン部
族である。ダビデ、ソロモンの後、北と南に分かれたイスラエルはアッシリヤとバビロニアにそ
れぞれ滅ぼされ捕囚となった。帰還が許されたのは前に挙げた二部族とレビ族である。新約
になりキリストの福音を異邦人に伝え、今日の教会の礎を築いたパウロはこのベニヤミン族の
出身である。ダビデとヨナタンの友情は千年後、パウロとその友のために命をささげてくださっ
たダビデの末、キリスト・イエスによって完成したのであった。話が色々な所に飛んでしまってい
るが、神の摂理とは単に、あなたと私は神によってここに生を受けた。だから仲良くやっていき
ましょうなどというものではない。本気で神の御心にしがみついて命がけで生き抜くものであ
る。そうでなければ自らその責任の重さに耐えかねて滅びていったサウル王を裁く事はできな
いし、ヨナタンを初めとする多くのイスラエルの有能な人々が命がけで神の愛と義と聖を守るた
めにサウル王に使えた苦闘を知ることもできない。今日、我等は本物の信仰者として神の召し
てくださった器を見つけキリストの福音のために本気で使えることができているだろうか。
 ヨナタンがなぜそれほどにダビデに惚れたのか。何が二人を結びつけ離さなかったのだろう
か。ものごとの真価を見極めるためには、それを見る視点に立たなければならない。彼らの友
情の真価は、信仰という視点に立たなければその美しい輝きを発しない。ヨナタンもダビデも
自らと同じようにイスラエルの神、主を信じ、より頼み、あがめる者をその信仰ゆえにこよなく
愛した。それは「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」と書かれているとおりである。
本物の友情は、折り在るごとに深くなっていく。最初ヨナタンは自分の生涯の片腕ができた位
に思ったであろう。しかし、ダビデの正体を少しずつ見せられて行くうちに自らがダビデのよき
助け手にならなければならないと示されていったことだろう。二人の契約(サムエルT18:3)は二人
が置かれた複雑な現実の中でしかし、どこまでも互いがこの友情を純粋無私のものとして守り
抜くために神の前になされた誓いである。こんな見方ができる。この友情はダビデを紛れもな
い神の王国イスラエルの王とした。サウルが狂気の中でダビデを殺そうと躍起になっていた
時、ヨナタンは確かに助けの手を差し伸べ彼を救った。自分自身の命も危うい中での救出劇
は、二人の契約が本物であったことを裏付けるものであった。しかし、本当にこの友情が効力
を発したのは、ダビデが逃亡の中、訪れた二回のサウル王暗殺のチャンスを「彼は部下に言
った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、
手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」という告
白と共に罪を犯さなかったところにある。サウルがヨナタンの父だったからではない。親友ヨナ
タンが日々涙に暮れながらも神に召された自らの父、イスラエルの王に対する愛と敬意を失わ
なかったからである。彼は父と共にペリシテ戦争でその命を落とした。この戦いに勝利がない
ことを彼が一番悟っていたであろう。もし許されるなら親友ダビデと共に新しいイスラエル王国
を築いて行きたかったであろう。「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再
び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と
愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であ
ることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてく
ださい。」(テモテU1:6〜8)



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