「同労者」第14号(2000年11月)                          目次に戻る

ショートコラムねだ

− 思 い 出 と 記 念 −

 「思い出」と「記念」は違うものである。
 教会は、10年、20年と歩み続けて、そこに所属する人々の信仰の歴史を重ねる。これら
の、個人の信仰の歩み、教会の歴史についてどんな視点でこれを見つめればよいのであろう
か。
 かつて、"思い出づくり"なるテレビ・ドラマがあった。ありふれたドラマに過ぎないが、その道
の評論家に言わせれば、トレンディ・ドラマの先駆けになった作品であるなどと評するかも知れ
ない。マスコミの影響は絶大である。そのあと「思い出づくり」なることばが流行った。最近ま
で、S教会主牧に、思い出など話したら"目の前の課題を考えず、思い出なんて考えているの
かね。"と鼻先で嗤われそうであった。
 「同労者」本年10月号の巻頭言に、聖泉連合のサマーキャンプにおける「中高年の信仰」の
クラスで、過去を振り返ることが取り上げられた記事が載せられている。
 個人も歴史を重ね、教会も歴史を重ねる。そのとき、個人が歩み、教会が歩んだ足跡が残さ
れる。
 ある先生がこんなことを言っていた。「いやあ、10年、年をとるごとに、体の具合が変わるん
ですよ。やっぱしね。30代、40代、50代・・と、それ毎に、ぐーっと違いがでてきますね。」
 人間個人については、体調とか、疲れの程度とか、病気になりやすくなったとか、若いときに
は疲れても一晩寝ればその疲れがとれたのに、10歳年が上がったら、一晩寝ても疲れが残
るようになったとか、といった、どちらかといえば、体の具合について話していることが多いであ
ろう。
 信仰者として年を経ると、その歩みの中に、様々な困難が置かれ、それに取り組んだ足跡が
残される。神は年を経る毎に、また異なる課題を置かれて信仰の取組をすることを許されるの
である。
 「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油を注い
だ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。」(創世記28:18〜19)
 「あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせ
きとめられた。…これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』…ヨルダン川の真ん中か
ら十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。」(ヨシュア4:1〜9)
 「記念」は神が私達に与えてくださった恵みの証拠である。
 教会の歩みについても、個人の信仰同様、どのような課題がそこにあり、それを担った人々
がどのような歩みをしたか、覚えたいものである。どの教会を取り上げても、その歩みには労
苦があり、涙があり、喜びがあったであろう。成功もあり失敗もあったであろう。そこに記念す
べきものがある。
 その記念が教会の未来の建設のよき指針であることを疑わない。
 


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