「同労者」第14号(2000年11月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL & FAX :  022-266-8773
 e-mail


 今回もまず、先月の質問に対する回答例を紹介しましょう。
1.どのように考えたら、「聖潔」の標準を高過ぎもせず低すぎもしないように把握できま
すか。  (回答例・・作成者:野澤)
 これは、潔めを求める人々にとっては、存在しないようなものを求めたり、未だ潔めを与えら
れていないのに与えられたつもりになったりすることに対する大切な問題です。またどなたかに
潔めをお伝えする上においても欠かすことの出来ない重要な問題です。
 キリスト者の完全にこの問題がそのまま取り上げられていて、ジョン・ウェスレーはこう答えて
います。「それは聖書に照らして考量し、これを聖書の示す高さに置くことによってできる。それ
は神と人とに対する純粋な愛、我らの全身全霊をもって神を愛し、又自分自身の如く隣人を愛
することよりも高くなく、又低くも無いはずである。それは心と生活とを常に支配し、凡ての性
情、言語、行為を一貫する愛である。」

 この問題を以下の4点について考察しましょう。
(1)聖書に基準を置かず、自分の経験に合致するように潔めの内容はこういうものであ
ると決め込む危険を避けること
 潔めに反対する人々が陥った誤りの最大の原因は、自分が経験している以上のことはない
と決め込んで、聖化の解釈をしようとした点にあります。そして聖化とはこういうものであるとい
う自説を証明するような聖書のことばを探して当てはめます。
 同様の誤りを、聖潔を信じている私たちも犯す危険があります。つまり自分自身の経験して
いる内容に聖潔の教理を合わせようとしてしまうことです。
 潔め派では、聖別会などの集会において恵みの座が開かれ、全てを献げる決心と祈り求め
たことは「得たりと信ぜよ。さらば得べし。」と信じて立っていくことが勧められます。献身の決意
と潔めを求める信仰は霊的進歩をその人にもたらします。けれども実際には聖霊の火が未だ
下っていないということがあるのです。しかし霊的進歩を自覚する故に、その時の霊性を潔め
の標準と断じ、潔めの教理をそれに合わせようとしてしまうのです。
 神の望みたまわない習慣を止める決心、善き業の実行の決心などをすることも同様の過誤
に陥る糸口になることがあります。私の例を申し上げますと、私は救われたときフォークダンス
のクラブに所属し熱心にそれに参加していました。けれども聖霊に示されそれを止める決意を
し、当時の私の牧師であった小島先生をたずね、その告白をし祈りを共にしました。そしてそ
のとき大いなる霊的な前進がありました。私は潔められたと思いました。けれども山形に新し
い教会がつくられ、その開拓の特別伝道会のお手伝いに行ったとき、近くのホーリネス教会の
婦人伝道師がいらして潔めの話題になり、その方が私に「聖霊経験をなさったのですか?」と
確認をされました。私はそのとき「はい。」とは答えられませんでした。そして、潔められましたと
いうには不足であることを悟りました。やがて潔めというには程遠い霊的内容であることを、地
につく宝を恋い慕うということを通じて現実の信仰生活で暴露することになってしまいました。
 信仰生活の場が整っている様な場合、献身の決意と「得たりと信じて」未だ得ていない状況
が長く続けられる可能性があります。その時が最もこの種の誤りを犯しやすいでしょう。

(2)誰の教えを神が教えたもう真理であると受け止めて聞くか考えること
 私たちが潔めの教理を知りたいとき、その解説をしてくれる神学者の著書を開くことをしま
す。それらを数多く開いてみるとき、ある人はこういうが、別の人はまた別のことをいうというの
が実際です。では、誰に聞けばよいのでしょう。
 ペテロにイエスの十字架の直ぐ後の展開が委ねられ、パウロにその後の福音宣教と、福音
理解が委ねられたように、神はその時その時人を立てられて、ご自分の教えを宣教されまし
た。「救い」はルターに、「潔め」はジョン・ウェスレーに神が委ねられたと考えるのが妥当では
ないでしょうか。
 ですから潔めについて学びたいならまず、神が立てられたウェスレーの教えをひもとくべきで
す。ジョン・ウェスレーはこう言います。「私の教えが間違っていると言うのであったら聖書をもっ
てその誤りを指摘してもらいたい。」彼と違う教えを信じようと思うのであれば、ウェスレーの主
張するとおり、聖書をもってウェスレーの誤りを指摘した上でそうしなければなりません。
 ウェスレーと違う潔めを教える人々の中で、ケジック派すなわちF.B.マイヤー、アンドリュ
ウ・マーレーらの教えには特に気をつけなければなりません。多くの点で学ぶべきことがあり、
また福音の世界の優れた人物たちであり、その著書から私たちも大いに益を受けていること
は論を待たないのですが、聖潔の理解の点では異なってきます。何が違っているか、というと
「罪の性質の潔め」の理解が異なるのです。この人々の教えは私たちの信じるところに近いが
故に、その微妙な違いを悟らないと危険なのです。
 神が潔めを託された人物の教えを理解し、その教えているところを経験させていだだき、そ
れに生きさせていただいてみるときその聖書理解の誤りないことを知るでしょう。

(3)ジョン・ウェスレー「キリスト者の完全」"完全者とは何を意味するか"に学ぶこと
 ジョン・ウェスレーはキリスト者の完全の中で以下の様に述べていますが、この内容は、質問
の回答に相応しいと考えられます。
1.潔められた人々は、いかなる意味で完全ではないか
 ・彼らは知識において完全ではない。
 ・彼らは無知または過失から免れ得ない。
 ・彼らは諸種(理解できない、能力が足りない、等々)の弱点を有する。
 ・(罪ではないが)誘惑から免れることもない。
2.潔められた人々は、いかなる意味で完全であるか
 ・彼らは罪を犯さない。
 ・彼らは悪しき心情、悪しき気質から解放されている。(これが内心の罪が潔められていると
いうことの内容である。)

(4)注意すべき諸点
 聖潔について以下の諸点に留意すべきです。
 聖潔は救われた後に、明確な第二の神経験を伴うものであって、いつの間にか潔められて
いました、というようなことはありません。その内容は神の御心に全く服従して生きることをよし
とする心が与えられることです。不服従の心をもったままの潔めはあり得ません。ですから少
なくともこの神経験に導かれることが最低限必要なことです。
 聖潔に与った人は、自分の変化に気づきます。その変化は、ヨハネの福音書14章から17
章においてキリストが語られた告別の説教と祈りに現わされている次の点についてであって、
聖潔に与る以前はわずかしか持っていなかったものです。聖潔に与るとこれを豊かに、自分が
自覚できるまでに持つのです。
 ・キリストの平和が心の中にあること。
 ・聖霊による喜びがあること。
 ・兄弟に対する愛があること。
信仰生活に悩みの多いことは誰しもが経験することです。しかしその悩みの中にあっても、こ
の3つは失せるものではありません。
 ジョン・ウェスレーのいう、罪を犯さないとか、悪しき心情、悪しき気質からの解放ということ
は、あらゆる場面を想定して、どの事態が生じても対応できるというようなものではありませ
ん。私たちが現実に生きている生活の場で、その一瞬の歩みに対して、罪を犯さない、善き心
をもってことに当たることができるというだけです。潔めの要求として、一歩みに対して完全で
あれば十分なのです。

2.潔められた人は罪性の潔めが与えられたのに、どうして罪を犯すことがあるのですか?
(この質問の回答例は次月に掲載します。)



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