「同労者」第14号(2000年11月)
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![]() ろにまたたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』ところが、バルナバは マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れてゆくつもりであった。しかしパウロはパンフリヤで 一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者は連れて行かないほうがよいと 考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、…」(使徒15:36 〜39) 戦争前のことに関してですが、故山本岩次郎牧師はこう言っていました。"私の前で教会が 二つに分かれてしまった。その狭間に立たされて、どこに行かなければならないか選択しなけ ればならなかった。感謝すべきことに、神の道の本流と思われる方を選ぶことができた。"と。 聖書には神の道の本流を歩むことが出来た人物と、本流からはずれた人物が記されてお り、その例は枚挙にいとまがありません。サウルは王の家系の本流からはずれ、ダビデが立 てられました。エリシャは予言者エリヤの後継者の本流を継承しました。エリは祭司でありまし たが、世襲で祭司を継ぐことに定められていたにもかかわらず、自らの子孫を祭司の家系にと どめることができませんでした。 冒頭の聖書の箇所では、マルコの扱いに関するパウロとバルナバの意見が合わず、二人は 行動を共にできなくなり、分かれて伝道旅行に行ったことを記しています。聖書の示すところは 明らかで、パウロは神の本流を行き、シラスはもはや神の働きの中心をなすことはできません でした。しかし、当時居合わせた人々には、どちらが神のみこころに沿っていたか区別がつか なかったかも知れません。 それでは、本流と本流からはずれた道との区別が本当につかないのかというとそうではあり ません。私たちが、真摯にへりくだってみこころを求めるならば、神はいずれがみこころに適う 神の道の本流であるかを私たちに必ず悟らせてくださいます。 神は寛容な方であって、いずれも即座に神のみ前から投げ捨てられるわけではありません。 神様のご寛容さには驚くばかりです。本流からはずれた人もそれなりに信仰を保ち、信仰の生 涯を送ります。 しかし、私たちの願うことは、私たちの信仰が神の道の本流であることです。私たちの前に置 かれる問題は、このような大問題でないことが多いでしょう。そしてどちらを選んでもよいように 見える、というよりも自分の考えが正しいと見えることが多いことでしょう。イエスは弟子達にこ う話されました。「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神からで たものか、…がわかります。」 ![]() |