「同労者」第14号(2000年11月)
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「この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。…私の同労者…によろしく
伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたので す。…」(ローマ16:2〜4)
前回から、この手紙の最後の、結語(結びと個人への挨拶) (ローマ15:14〜16:27)の部分に入
り、この箇所を、以下の3区分に分け、その最初の部分、結び(ローマ15:14〜33)を学びました。
・結び(ローマ15:14〜33)
・個人への挨拶(ローマ16:1〜23)
・祝祷(ローマ16:25〜27)
そして、結実の教理の解説を学んだ時と同様に、パウロがどのように考えたのであるか、その
思考の流れを追ってみました。この部分の着目点として、
@新約の祭司(15:16a)
A聖霊によって聖なるものとされた、神
に受け入れられる供え物(15:16b)
Bキリストは、ことばと行いにより、…
成し遂げて。(15:18〜19)
の3項目を取り上げ、@を学びましたが、A、Bを残しました。殊に新約の祭司については、雛
形としての旧約の祭司を取り上げ、以下の項目に分けて考察しました。
・任命と聖別
・栄光と美を表す装束
・任職の方法
・祭司の幕屋に於ける務め
私達は、旧約の祭司に勝るものを与えられているのですから、この職務に励まさせて頂きた
いものです。
私たちが祭司であるということは、私たちにとって極めてきつい要求をもたらすものです。な
ぜなら、親の訓育のしかたで子どもが神の権威に服して生きることができるか否かに、決定的 影響を及ぼすのですから、どんなにか心を用いてそれに取り組まなければならないことでしょう か。ある年齢に達したならば、子どもの側もそれを理解し、子どもの意志で親のことばに従うこ とがなされなければなりません。
また、牧師と信徒の間も同様です。信徒はしばしば牧師の意見を理解できないかも知れませ
ん。そのとき神の建てられた教会の秩序の中で生きることが要求されます。牧師の牧会を成 功あるものとするためには、牧師の技量も必要でしょうが、牧される信徒の協力も必要です。 ことに、自分は何を考えどのように行動している、等々のことを牧師に説明して分かってもらう 必要があります。そうする事によって、牧師はより的確な判断をすることができます。
前回の学びの最後の話し合いの際に、二つのことが取り上げられました。その一つは、「万
人祭司というが、"我も祭司、我も祭司、…"とみんなが言い出したら困るでしょう。」という指摘 でした。もう一つは、旧約の祭司が用いたウリムとトンミムについてでした。これらについて、も う一度述べておきたいと思います。
第一の問題について聖書を調べ直しましたが、この指摘は以下の二つに区分して考えるとよ
いと思います。
・万人祭司について聖書は何といっているか
・我も祭司、我も祭司とみんなが言い出すことに対して聖書は何と言っているか
<万人祭司について>
ローマ人への手紙を学んできて、1〜5章は救いについて、6〜8章は潔めについて、9章以
下は結実すなわち聖潔と教会の関係について記されていると整理させて頂きました。そして救 いと潔めの段階は、神と私の二者の関係が中心であるが、教会の段階は、神と私と隣人、神 と隣人と私または神とそして私と隣人が横並びにある関係、つまり三者の関係から成り立って いることを述べました。神にあって関係をもつ(私はこれを"教会の関係"と呼ぶことにしました が)私と隣人との関係にはいずれかが、神の働き人の役をします。これを万人祭司と呼ぶので す。ですから"万人祭司"を捨てると、ローマ人への手紙の1〜8章までで事足り、9章以下は 不要になってしまいます。
旧約の神の民は、アブラハムの子孫に限定されていました。新約の神の民は、キリストの贖
いを信じたすべての国の人々です。旧約の神の民の中に、予言者、王、祭司がいました。予言 者には、その都度、ある特定のほんの数人の人が神の召命によってなりました。王には世襲 で一人だけが立ちました。祭司にはアロンの子孫が世襲でなりました。これらの三つの役職 は、民全体から言えば、ほんの一握りの人々でした。
新約の神の民は、キリストの体として、沢山の肢でできています。(ローマ12:5〜8、コリントT12:12
〜30、エペソ4:1〜16などを参照) また神の住まれる神殿として、沢山の部分からなっているとさ れます。(エペソ2:20〜22などを参照) 旧約の神の民が持っていた、予言者、王、祭司という三 つの役職は、新約の神の民の中に霊的なものとしてそれが与えられました。しかし、それは特 定の人物が選ばれるような役職ではなく、「万人予言者」「万人王」「万人祭司」としてであって、 教会の関係にある私と隣人のすべての中に存在するものとされました。
ジェファーソンはその著書「牧会と説教者(教会の建設)」の中の、王位の建設という章に、説
教者自らに王位を建設するとともに、教会員一人一人の中に王位を建設すべきことを述べ、 表現は異なりますが、「万人予言者」「万人王」「万人祭司」と同じ思想を述べています。
新約の教会には、予言者、王、祭司の系列とは別な、神の羊の牧者すなわち「牧師」(「伝道
者」「監督」を含む)という職があらたに創設されたと考えるべきです。(マタイ28:19、ヨハネ21:15〜 17、使徒20:28など参照)
<我も祭司、我も祭司とみんなが言い出すことについて>
モーセに逆らった人々の記録がその事例を示すように、その危険性は多いにあります。です
から、「慎み深い考え方をしなさい。…大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであ り、ひとりひとり互いに期間なのです。」(ローマ12:3〜5)と警告されています。このパウロの警告を しっかり守っていれば、問題は起きないでしょう。
前回残した着目点A、Bに入ります。
A聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物(15:16)
「…異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、…供え物とするため」(15:16b)
先に述べたように、これは"祭司の役割"を言っているのではなく、"祭司の役割を勤めている
理由、目的(結果)"を言っているのです。
パウロが祭司の役目を務めた結果、罪と汚れに沈んでいた異邦人達が、聖霊によって潔め
られた神の供え物となるとは、何とすばらしいことでしょうか。同様に、私達が新約の祭司に任 ぜられ、その役をを果たすなら、私達は私達が担った人々の回心と潔め、神の民となることを 獲得できることを意味しています。
Bキリストは、ことばと行いにより、…成し遂げて。(15:18)
前にも述べたように、この節の後半は、キリストが宣教されたように述べられていますが、キ
リストが直接何かをなされたのではなく、キリストはパウロのうちにあって働いて下さり、ひとた びパウロの歩いた地域では、福音を聞かなかった人がいないまでになりました。パウロに与え られた品性、聖霊の力とその賜、使命に対する忠実な働きによって、ここにパウロは自らの結 実を証詞しているのです。
そしてさらに豊に実を結ぶよう、イスパニヤにまで足を伸ばしたいとの意欲に燃えているわけ
です。そのために「兄弟達よどうか私のために祈って下さい。」との依頼をしています。パウロ は祈りに答えて神が働かれることを少しも疑わない筆致で述べています。
5.2個人への挨拶(ローマ16:1〜23)
この部分は、さらに以下の3区分に分けることができます。
・フィベという人の推薦(16:1〜2)
・各個人への挨拶(16:3〜20)
・手紙を出した側の同労者の紹介(16:21〜23)
5.2.1フィベという人の推薦(16:1〜2)
教会に対して「推薦」ということばが使われるのですから、パウロはフィベをローマ教会の婦
人教役者として推薦していることは明かです。ローマ人への手紙は、このフィベという婦人の推 薦状を兼ねているので、この婦人の手に託されてローマの人々に手渡されたとすることは当を 得ていると思われます。この部分には以下のことが述べられています。
・この婦人はどんな人物か
・ケンクレヤの教会の執事
・私達の姉妹
・期待する受け入れ方は
・聖徒にふさわしいしかたで
・あなたがたの助けを必要としてい
ることは何でも助けて上げてほしい
・その理由は
・この人は多くの人を助け
・また私自身をも助けてくれた人だ
から
この人は教会の女執事でした。この頃既に婦人も教会の働き人に任命されるようになってい
たことがうかがえます。
"私達の姉妹"という表現は、「信者である婦人」の意味に解されているのが定説ですが、私
には「肉親の姉妹」であるように感じられてなりません。もちろん、パウロがテモテを「真実のわ が子テモテ」(テモテT1:2)と書き、ペテロがマルコを「私の子マルコ」(ペテロT5:13)と書いているよ うに、これらの表現は親愛の度合いを示していて、実際の血縁を表現していないこともありま す。「肉親の姉妹」と感じさせるほどに、パウロと親しかった姉妹であると解すればよいのでしょ う。パウロの肉親の姉妹であるとすれば、パウロの実の母と兄弟がローマにいますので(ローマ 16:13)、ローマに行く用事ができても不思議はありません。訴訟のためにローマに行ったという 説が有力ですが、聖書にはフィベが訴訟のためにローマに行ったとは書いてないように思えま す。
"聖徒にふさわしいしかた"は、ローマの人々が聖徒にふさわしいあり方をせよとも解釈でき
ますし、フィベに対して聖徒に与えられるべき処遇をせよとの意味にもとることができます。
"この人は…助けてくれた人です。"ここにこの婦人に対するパウロの評価が込められていま
す。そしてパウロにこう言わせたことこそ、このご婦人の栄光です。
5.2.2 各個人への挨拶(16:3〜20)
ここに登場する人物達の多くは、パウロがかつて別な場所で知り合った人々ですから、皆ロ
ーマに移り住んでいたものと考えられます。
これらの人々に対するパウロの心がここによく現されています。その幾人かを取り上げてみ
ます。
・プリスカとアクラ(16:3〜5a)、(使途18:1〜3、18:26、コリントT16:19、テモテU4:19)
プリスカは使途の働きではプリスキラと呼ばれていますが、夫アクラとともにパウロの働きを
助けた人物であることが分かります。パウロは、私の「同労者」(16:3)「自分のいのちの危険を 冒して私のいのちを守ってくれた」(16:4)と言い、「私たちだけでなく、異邦人のすべての教会が (この二人に)感謝している」(16:4)と付け加えています。これらの一言一言にはなんと多くのこ とがらがその背景にあったことでしょうか。
この二人はこの手紙が書かれた時にはローマにおり、その家は教会になっていたと思われ
ます。(16:5)
ローマにはこのような教会が他にもたくさんあったかも知れません。そうであれば、パウロが
この手紙で「ローマ教会」という言葉を使わなかったことに納得がいきます。
・エパネト(16:5)
この人は「私(パウロ)の愛するエパネト…アジヤで最初にキリストを信じた人」だとパウロは
述べました。
・マリヤ(16:6)
マリヤという名ですから、当時この呼び名はユダヤ人だけが使っていたと言われていますの
で、恐らくユダヤ人なのでしょうが、「あなたがた(ローマの人々)のために非常に労苦した」とパ ウロは述べました。
・アンドロニコとユニアス(16:7)
この二人は、「私の同国人」「私と一緒に投獄されたことがある」「使徒達にも良く知られてい
る人々」「私より先にキリスト者になった人々」でした。
・アムプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロの家の人々、ヘロデオン、ナルキソ
の家の人々(16:8〜12)
これらの名が次々と挙げられています。「私の愛する」「私たちの同労者」「キリストにあって
練達した」「私の同国人」「主にある人」「主にあって労している」「主にあって非常に労苦した」 と、パウロはそれぞれの人物の主にある働きを取り上げています。
・ルポスとパウロの母(16:13)
「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」パウロの肉親に関
する記事は、ほとんど記されていませんが、ここに断片的に載せられています。この一言の中 に、パウロの肉親への思いやりを感じます。
・以下、パウロは、一人々々の顔を思い浮かべながら、「よろしく」と挨拶を送っています。
「…、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たち…」(16:15)とありますから、 オルンパという人のところにも教会が形成されていたのかも知れません。
・まとめのことばと勧め(16:16〜20)
「聖なる口づけをもって互いのあいさつをしなさい。」(16:16)と積極的な交わりを勧めるととも
に、「分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。」(16:17) と注意を与えています。そしてその理由を続けます。「そういう人たちは、私たちの主キリストに 仕えないで、自分の欲に仕えているのです。…純朴な人たちの心ををだましているのです。」 (16:18)
「あなたがたの従順は、…知れているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、わ
たくしはあなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」(16:19)
「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。…主イエス
の恵みが、あなたがたとともにありますように。」(16:20)サタンが踏み砕かれるとは、福音を知 らなかった人々がサタンの繋ぎから解放されて、神のもとにに帰ること、サタンの支配下にある ローマに神の教会がうち建てられることと思ってよいでしょう。主イエスの恵みが、ローマの 人々に勝利を与えるようにとの祈りをもって、パウロはこの段落を終わりました。
5.2.3手紙の出した側の同労者の紹介(16:21〜23)
テモテ、ルキオとヤソンとソシパテロ、テルテオ、ガイオ、エラスト、クワルトといった人々の名
を挙げて、パウロは私の同労者たちがあなたがたによろしくと言っていると告げています。これ らの人々については、その名の出てくる聖書箇所を挙げておきますのから、その前後を読んで どのような意味合いで引用されているか考えて下さい。
・テモテ(使徒16:1〜3、19:22、20:4、コリントT16:10、テモテT、U)
・ルキオ(使徒13:1)
・ヤソン(使徒17:1〜7)
・ソシパテロ(使徒20:4)
・テルテオ…この手紙を筆記した人物(ローマ16:22)
・ガイオ(使徒20:4、コリントT1:14、コリントT14:13、ヨハネV 1)
・エラスト(使徒19:22、テモテU4:20)
・クワルト…この人は不詳(エラストの(肉親の)兄弟とも読めます。)
<今回の学びの結び>
私たちには、しばしば、忙しくて他の人にかまってはいられない、ということが起きます。パウ
ロは彼自身が記しているとおり激務の中を歩みました。「…私の労苦は彼らよりも多く、牢に入 れられたことも多く、またむち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むち打たれたことが三度、石で打たれたこと が一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の 難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟 の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒 さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかる 諸教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。 …」(コリントU11:23〜29)
しかし、ここ、ローマ人への手紙の最後には何と沢山の人々への覚えが記されていたことで
しょうか。そしてひとりひとりの功績を数えているのです。
わたくしたちも自分については、「右の手のしていることを左の手に知られないように」(マタイ6:
3)生き、隣人の功績を数えて「互いに人を自分よりもまさっていると思い」(ローマ12:10)たいもの です。 |