「同労者」第14号(2000年11月)
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してあなたたちは私のたましいに言うのか。『鳥のようにおまえたちの山に飛んで行け。』」
鳥のように飛んで行けと言うのは、逃げ出せ、山に逃れて難を避けよという勧告なのです。
しかし作者ダビデは言います「私は主に身を避ける。私の信仰に水をささないでくれ」と。信仰
を持つことは世の苦しみ悩みから逃れることではなく、かえって苦難を真っ正面に受ける座に 身を置くことなのです。私たちの救われる前は良心が眠っていたので自己責任に対して鈍感で した。しかし救われると自分の良心が目覚め、痛みを感じるようになります。いわゆる心に逆 風、すなわち苦しみを感じるようになるので、良心的な悩み・善を知りつつ行えない苦しみ・平 気で嘘いつわりを言ってしまう自己嫌悪・直ぐ自己保身に走るずるさ…。そんな悩みを持つ自 分の姿を見て人は言うでしょう。「君はまじめすぎるよ。もっと要領よく適当にすればいいの に。」先ほどの詩篇で言うなら「鳥のように山へ飛んで行け。」と言うのです。
そんな時、信仰は試みを受ける「そうか。自分はあまりにも固く考えすぎているのかも知れな
い。少し譲って妥協しても許されるのではないか。」しかし、ダビデは避難勧告をする友人に向 かって「どうして君たちは私の気をくじくのか。私は私の主に身を避ける。」と不信仰の声を退け る告白をしているのです。
考えてみると私たちの生活は絶えず信か不信か。主に仕えるかバアルに仕えるかの選択の
連続と言っても過言ではありません。ペテロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがた の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っ ています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」と勧めています。
どうぞ、安易な不信仰に走らず、神のみ手の中で苦しみの意味を学んで行く人になってくださ
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