「同労者」第15号(2000年12月)                        目次に戻る

証 詞

さ さ や き の 声
荒川聖泉キリスト教会  永岡 弘行


 みことばを信じ、受け入れた私の生活には変化が起こりはじめました。その変化をひき起こ
したものは、それまで何気なくしていたことに対する「それでよいのですか?」とのささやき声で
した。


 私は郷里の実業家のお世話で、東京に出て来ました。その方は、「東京は仕事をする所で
す。100万円(今の1,000万円)貯めたら郷里に帰って生活することです。」とおっしゃいまし
た。教会で語られる人生の生き方とは大きな違いがあることが分かり、はっきりとどちらかにし
なければ中途半端な生涯になると心の動揺を感じ始めました。牧師先生は、50才を越えて
も、尚元気に確信に満ちておられるのは、聖書を基本にした生き方をされているためであるこ
とがわかりました。
 自分にも語りかけて下さる声があると思い、新約聖書の最初から読みはじめました。マタイ
伝6章24節まで読んで来ました。「だれも、二人の主人に仕えることは出来ません。…神にも
富にも仕えることは出来ません。」と読んだ時、それから先へ読んで行くことが出来なくなりまし
た。
 実業家の生き方か、牧師さんの生き方か、どちらかにしなければならないとのささやき声を
聞きました。
 力強い牧師さんの生き方、期間は短いもののみことばを信じることで与えられた平安、喜び
を考えると、自分の主人は神様にしよう、神様の代弁者である牧師のことばに従って行こうと
決断し、神様にお約束しました。
 又、こんなこともありました。
 夫婦そろって礼拝に出席した日曜日の午後のことでした。ちょっとした会話から妻が会話をし
てくれなくなり、色々と話しかけても返事をしてくれませんでした。二人が協力しあって行けば、
貧しくはあっても必ず道は開かれて行くと考えていた私にとって、妻の沈黙は大変悲しく、困っ
たことでした。仕方がなく私も黙っていますと、「おまえの目は妻の方ばかりに向いているが、
自分はどうなのか?」とのささやき声を聞きました。
 反省しますと、実に気分屋でふけさめの多い者であることに気がつきました。尚静まって、自
分がうれしい時、悲しい時、いらいらする時、せっかちになる時、・・はどんな時だろうかと思い
めぐらしていますと、根底に「自分が」というものが大きく存在することを発見しました。
 このことは聖別会でも良く説明して下さっていたことでした。
 イエス様を自分の主人にしますと云っていましても「自分が」というものがどっかりと座ってい
ること、この罪の性質のためにもイエス様が十字架に架かってくださったこと、このことも救い
の時と同じで、信ずることで恵みを与えて下さることを教えていただきました。そして、「この奥
義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)のみことばを
開いて下さいました。語りかけて下さる小さなみ声に聞き従うようにとすすめて下さいました。
 そして「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるな
ら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙
示3:20)のみことばを開いてくださいました。
 私は自分の中にある"自我"のためにイエス様が代価を払って下さったこと、勝利して新しい
いのちを与えて下さることを信じることができました。
 妻の沈黙により、イエス様のささやきを聞くことが出来ました。そして物事がうまく展開しない
時は「ちょっと待てよ。」と一拍の休止符のある生活へと変化しました。 




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