「同労者」第15号(2000年12月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL & FAX :  022-266-8773
e-mail 


 先月は以下の質問の1.に対する回答例を紹介しました。今月は2.についての回答例をご
紹介しましょう。
1.どのように考えたら、「聖潔」の標準を高過ぎもせず低すぎもしないように把握できますか。
2.潔められた人は罪性の潔めが与えられたのに、どうして罪を犯すことがあるのです
か?  (回答例・・作成者:野澤)
 罪は行為の責任と結びついている問題です。ある行為に対する責任は、その行為を行った
人の意志決定があった場合のみ生じます。ですから、罪は人間が意志決定する自由を与えら
れたために存在する問題です。
 「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがた
は、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)「兄弟た
ち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会
としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)「主は御霊です。主の御霊のあるところ
には自由があります。」(コリントU3:17)これらのみことばは、潔められ聖霊に満たされると自由に
なることを示しています。聖霊は人間を奴隷にするお方ではありません。人間は聖霊に満たさ
れたとき真に自由なのです。自由とは善を行うことも罪を犯すこともできるということを意味して
いるのであって、罪を犯すことが出来なくなるのではありません。ですから、これらのみことばで
も、その自由をまた肉のために使ったりしないようにと警告しているのです。
 潔められた人が罪に陥るのはサタンの誘惑によるのです。堕罪前のアダムは全く潔い存在
であったと考えられています。そのアダムさえも罪を犯しました。まして罪を犯した経験があり、
様々な面で誤りの多い私たちなのですから、アダムよりも誘惑に陥りやすくても不思議はあり
ません。
 無知のゆえでなく、信仰生活の実際面からこのような疑問が起きてくるとしたら、その自分の
信仰内容を吟味する必要があります。毎日のように罪を犯したと思っては悔い改めますと祈っ
ているような信仰生活をしているでしょうか。その場合二つのケースを考えてみるとよいでしょ
う。ひとつは真に潔められており、潔い生活を送っているにも関わらず、誘惑を受けてその誘
惑を罪と誤解して悔い改めている場合です。もう一つは弱さによって罪の誘惑に負け、本当に
罪を犯している場合です。この場合聖霊の確かな潔めを頂き、聖霊に満たされることを求めな
ければなりません。いずれにしても罪と誘惑の区別がつけられるようになることが大切です。

今月の質問
 次の問にまず自分で回答を考えてみて下さい。
1.どのようにして自分が潔められたことを知りますか。



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