「同労者」第16号(2001年1月)                         目次に戻る 

読者の広場(2)

<お便り>
エルサレムを歩く(4)
2000年の夏

中京聖泉キリスト教会  山田 義


・エルサレムを歩く
7月31日日曜日。八木富士雄さんの奥さん明子さんと、宮川達夫、昌子さんと私たち夫妻の5
人でテルアビブからエルサレムまでバスに乗って行くことにした。昨日宮川さんたちは、エルサ
レムにはすでに大会主催の団体遠足で一回りしたのだが、今日は自分たちの足で歩きたいと
いうことで意気投合した。2日前には私たちが二人だけでバスで来ているので案内することにし
た。知っている聖書の話も役立つかもしれない。宮川さんはせっかくここまで来たのだからあの
黄金ドームのある神殿地域に入って近くであれを見たい、出来ればあのモスクの中にも入って
みたいという強い意志があった。そして私たちには、2日前には行けなかったゴードンの「園の
墓」へ行き、園の花に囲まれてゆっくり聖書を読みたいという希望があった。
 エルサレムのバスセントラルからタクシーを拾った。小型車であるから4人しか乗れないとこ
ろを5人でもOKだという。東エルサレムはアラブ地区であるので安全性を心配しないわけでも
なかったがタクシーで行けば大丈夫だろう。旧市街の城壁を見上げるところにゲツセマネ教会
がある。ゲツセマネとは「オリーブ搾り」という意味であり、この大きな美しい教会は「万国民の
教会」とか「苦悶の教会」ともいわれる。十字架にかかる前にイエスが血の汗を流して祈ったと
いう場所にこの教会が建っており、2000年近くにもなるかもしれないというオリーブの木が柵に
囲まれている。


イスラエルの村

この教会の門を出てオリーブ山へ登って「主の祈り教会」を探した。「主の祈り」が各国の言葉
で掲示されていてその中にはエスペラントのものもあると聞いたからである。下ってきた一団の
観光案内人に聞いたら、この坂道の上の方だという。日照りはひどく坂道が急で途中でたどり
着いたのが「主の涙の教会」。目的地はあきらめてそこから引き返した。エルサレムを一望す
るに落ち着いた場所である。途中に飲み水の出ている蛇口があり身なりのきちんとした黒い
人々がペットボトルに汲んでいた。私も順番を待っていると、一人が話しかけてきた。日本人
か、そうです、日本のクリスチャンですというと、自分たちはインド人の一行で、あの人が牧師
で、あちらの人がビショップだと指していた。
  坂道を降る途中でことばが彫ってある石が立っているのを見付けた。「シモン。眠っているの
か。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まし
て、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスが祈りから戻って来て、弟
子たちの眠っているのを見つけ、ペテロにこう言い、再び祈るためにそこを離れて行った。そう
いう場面であり、今、燃えるような太陽が頭の上にあり、私はその道ばたに足を止めた。
  旧市街の城壁の中を歩いた。どこからがアラブ地区かユダヤ地区だかお構いなく歩いた。原
色のどぎつい色の菓子を売っていた、あの通りはアラブだったのだろう。聖墳墓教会から少し
南へ来て、例の死海の黒い泥の化粧品を負けさせて買ったあの化粧品の土産屋がユダヤ地
区だったろう。パソコンの学問が専門で大学の先生だった宮川さんが、頭上の横幕に気づい
た。英語で INTERNETインターネット と大書してある。色もデザインも日本の日常の街の生活
を思わせる。店の中をのぞいて見ると、狭い明るい部屋にパソコンが並んでいる。何人かが思
い思いの姿勢でマウスを動かしていた。私たちも今この部屋に入って行って、自分のホームペ
ージのアドレスを打ち込んだら、この3000年前のこの街で、アジアの西端のこの街で、東端の
日本の我が家のページがそこに現れるのだ。不思議な感じだ。
 ダビデの塔の近くでお昼になった。レストランを見つけ、中の様子をうかがうとヨーロッパ風で
ある。冷房が利いており、テーブルクロスとナプキンが整然とした部屋だ。明子さんの提案で、
椅子に座った私たち5人には食事は3人分の量で充分のはずだからというのでそうした。注文
取りのボーイはけげんな顔つきだった。出てきた大きな皿を見て私たちはみなそのアイディア
に納得した。
 宮川さんのどうしてもという、岩のドームの入場を決行した。その方向への出入り口ではイス
ラエル兵に今はその時間ではないと言われ、時間を待って一回りしているうちに他の入り口を
見つけた。そこではイスラエル兵に向こうへ回るようにと方角を指示された。こういうむずかし
い話は宮川さんが英語をきちんと聞き分けてくれたので助かった。シークレットの通過門に行く
と、手荷物検査があり、例のユダヤ教聖地の西の壁に入りそこから再び門をくぐってイスラム
の聖地へと行く。そこでもカバンの中を厳重に調べられた。ドームの中にはいるにはチケットを
買う。宮川さんが買ってきてくれた。カバンやリュックサックは持っては入れない。靴も脱がね
ばならない。私がみんなのものを留守番する。しばらくして宮川さんが急いでやって来て交代し
てくれた。ドームの中心には大きな岩が頑丈な木の囲いで囲われている。ここからマホメットが
昇天したと言われる場所だ。アブラハムが我が子イサクを献げようとして登ってきたモリヤの
山の頂上がここだと、何かの本に書いてあった。たしかに遠くの死海などから見れば高い山で
ある。エルサレムは海抜約800メートルの高さにある町だという。片隅ではアラブ女性たちが説
法の集会をしていたし、その岩の下に狭い通路を下りると洞穴になっている。何人かの人たち
が祈っていた。大きな空調設備も回っていた。

・園の墓
 園の墓は、エルサレムの城壁にあるいくつかの門のうちのダマスカス門から数分のところに
ある。バスや乗り合いタクシーのたまり場などの雑踏をすこし坂道を上れば右手に鉄板の扉が
ありそこを入ると静かな園の墓である。入場料を払うと緑の木と足下には草花が手入れされて
いる。ホースで入念に水をまく園丁に目であいさつ。ここではすべてが生きているんだと実感す
る。ところどころ、ベンチが並んでおり20人くらいが座ってメッセージを聞き祈り聖餐式ができ
る。少し低い場所に、がけの下だが人がかがんで入れるくらいの入り口が見える。入るとそこ
が死体を置いた墓であることが分かる。そこには、"HE IS NOT HERE FOR HE IS RISEN"「あ
の人はここにはおられない、よみがえ蘇ったからである」と書いてある。離れたところであるが
大きな丸い石が展示してある。


ダマスカス門


 ここはゴードンのカルヴァリーとよばれ、19世紀に発見されたところ。城壁内あの込み入った
聖墳墓教会のそれと説が分かれるところである。ベンチに座って私は考えた。あの聖墳墓教
会の中にある場所は、イエスが十字架から下ろされ葬られたところなのだ、でもあの場所も、
元は今目の前にあるこんな風景だったのだろう。岩に開いた穴、周りに花の咲いた園。それが
いつの間にかその上に教会の建物が積まれ、込み入った場所になった。だから、ここに見える
場所にも記念の石の教会堂が建てばあのような暗くて訳の分からないような場所になってしま
うのではないだろうかと。
 私たち5人はベンチに座って、イエスの墓にまつわる聖書の個所を開いて朗読した。ヨハネに
よる福音書から19章と20章を私が読んだ。イエスが十字架にかかり墓に葬られ3日後に女たち
がイエスの復活を知った個所である。私は声を出して読んだが、読んでいるうちに感極まるも
のがありとぎれてしまった。私は、いつもの教会の礼拝の中でも聖書を朗読するとき、ときどき
胸に迫ること
.がある。このヨハネの福音書は10代から何度も読み、礼拝のメッセージで聞いてきた個所で
ある。今こうして、2000年前の(正確にはもう35年待たねばならないが)その記事を彷彿とさせ
る墓の前で、ゴルゴタの丘を見上げながら静かに読むときに感動しない人があろうか。例えば
外国の有名な音楽家の墓参ができて感動したのとは違う。ここは、天地創造主のひとり子とし
てのイエスが十字架にかかり、墓に葬られ、3日目に蘇ったという、その現場に最も近い背景で
ある。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神
の力です。」(コリントT1:18)


ナザレの町


 エルサレムは三大宗教の聖地だという。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の。それぞれが
500メートルのうちにある。西の壁、聖墳墓教会、岩のドーム。学問的には聖墳墓教会のある
場所がゴルゴタの丘であり墓であるというが、ここがそうだと言われても親しみも感動もわいて
こない。私たち新教徒にとっての聖地は聖書の記述そのものにあると思わされた。(完)



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