「同労者」第16号(2001年1月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記(その12) −

仙台聖泉キリスト教会 牧師 山本 嘉納



 この原稿を書いているのは20世紀最後の月である。皆さんの手に渡るのは新しい世紀を迎
えてからになるだろうか。あと数日で2001年元旦である。昔、多分小学生の頃タイムカプセル
などと言うものがはやっていた。私の学校でも造り、そこに「2001年元旦の朝、僕は何をやって
いる」というのを書いて入れたような気がする。今それはどこでどうなっているのだろうか。自分
の30年後を予想したのであるから外れていてあたりまえだが、私はきっと宣教師だか牧師だ
か、とにかく親の後を継ぐようなことを書いていたはずである。成就したのは神のあわれみに
他ならないが、今考えると多くの人の協力と後押し、何より多くの祈りがあったればこそであ
る。祈りとは確かに祈ることだが、それだけでは不十分である。祈りを成就していただくために
信じて労することも忘れてはいけない。厄介をかけた張本人にしては強気の発言とお叱りを受
けそうだが、そうもしない限り牧師職も代を重ねていくことは出来ない。3代目くらいで老舗の真
価も問われるものである。無謀と言われた弟の出師も山形の白鷹教会で6、70人の信徒を前
に説教をしている。信じ縋り付き願いを成就していただくことは決して無謀なことではない。逆
に神の御旨を知りながらそれに逆らって生きることのほうがよっぽど無謀である。サムエル記
の話なので聖言を取り上げ進める。まずサムエル記T16:13に「サムエルは油の角を取り、兄
弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」とあ
る。神がダビデを召したのである。また(同15:28)「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を
引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。」とサムエルは神をない
がし蔑ろにしたサウル王に向かって神の預言の言葉を告げた。ゴリアテとの戦いの後、凱旋し
たダビデに対してイスラエルの女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌うの
を聞き『サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を
当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」その日以来、サウルはダビデを疑いの
目で見るようになった。』(同18:8、9)とある。この時、サムエルのあの預言の言葉がサウル王
の脳裏に戻ってきた。神の御意志を尊重しようとする者なら多少の嫉妬はするものの、脳裏に
戻ってきた言葉を潔く受け止め、なすべきことを模索するものである。しかし、人とは無謀なも
ので神の御意志に逆らえるもの、預言を無に帰そうとする試みを持つ。悪の長、サタンの試み
と同じである。「命亡き者に王位は継げまい。私の全存在を賭けてこれにあたってやる。」ひと
たび狂った歯車は殺人鬼を造り出してしまった。それはダビデの試練の旅路の始まりを告げ
た。槍で二度も突き刺されそうになるし、千人隊の長に急に抜擢され激戦地に送られた。その
他の色々な罠や策略も神の御手の中で賢明に対処されかわされて行った。ここでも神のサウ
ル王に対するあわれみは尽きていないことが分かる。彼の全精力を傾けた試みが、これほど
ことごとく潰えたことに誰ではないサウル王自身が身にしみて分かる「無謀の結末」であった。
恐れの中に見出すものは何であろうか。もしそれがあわれみであったならサウル王とて赦され
たに違いない。しかし、悪魔に魂を売り渡したかのように突き進む彼の姿にはどうすることも出
来ない人間の愚かしさを見る。
 対してダビデにとっての一連の出来事は、大いなる恐れと苦悩の中にあっても神の不思議な
御手の業を存分に味わう現場となった。神の愛がどんなものであるかということを、誰かから
聞くことも大切だが経験してしまうことに勝るものは無い。神をあえて試みることは禁止されて
いるが、人生の色々な場面で起こってくる問題や課題を神に委ねてどのように扱ってくださる
かを待ち望むことは有益である。特に気を付けるのは、能力や知恵の足らない者ではなく、そ
の逆の実力者である。厄介なことにこれらの者は、神の介入の余地を残さないまでに、自らで
事を決め行なってしまう。賜物は、使い道を間違えるととんでもない化け物に変身する。神と人
とのために用いられ正しい目的に使われるなら良いが、神の摂理に無頓着な者が自分を喜ば
せるために、それらを愛と称して用いる時そこに大きな破滅の穴を掘ってしまうことがある。十
分に労して肝心なところは神に委ねて成り行きを見る。それはすなわち誰かの助けや忠告を
受ける余地を残すことであり、時に自分の弱さをさらけだし恥ずかしい思いをしなければならな
くなるが、人を介して与えられる神の愛の暖かさ、すばらしさに感謝するものになれる。本当の
意味でのへりくだりはこんな愛の中にはぐくまれるものである。
 ダビデの戦いは続く。忍耐は訓練の賜物である。ダビデの忍耐はただ黙って我慢するという
ようなものではなかった。聖言を見てみよう。サムエル記T 22:20−22に「ところが、アヒトブ
の子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来
た。エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。ダビデはエブヤ
タルに言った。『私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知ら
せると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。』」とある。ダビ
デがサウル王から逃げている時、ひもじさから助けを求めた祭司アヒメレクに起こった惨劇で
ある。行なったのはエドム人ドエグであり、命じたのはサウル王である。しかしその責任は自分
にあると、ダビデは自らがひもじさの中で下した決断の甘さを取り上げた。潔いダビデの対応
ではあるが、人の命が自らの責任で失われることほど辛いことは無い。普通、耐えかねて責任
を回避しようと色々な言い訳や転化する相手を探すものである。また、もし許されるなら責任を
取って辞職し償いのために生きる道もある。心が繊細な人であればあるほどショックは大きく
立ち直れない。神のダビデに対する御旨を打ち崩そうとする敵対者の試みである。「あなたが
たのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あな
たがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐える
ことのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリントT10:13)手に余る
突然の苦難に取り乱し対処を誤ってはいけない。神の手の中に陥る最善と信頼に足る方であ
るという強い確信が救いの道である。神はダビデを訓練するために色々なところを通させなさ
った。彼にはその意義や目的は直ぐにはわからなかったに違いないがしかし、彼への神の訓
練は容赦なく日ごとにその激しさを増していく。神がこの試練の中でダビデに与えた最高の賜
物は何であろうか。それは、彼がいつか必ずこれらの訓練の意義が見出せること、成果が用
いられることを確信できたことである。
 


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