「同労者」第16号(2001年1月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は巻末にあります。



 ここ数回のこのテーマについての回答例に関して、読者の方々からいくつかの問いが返って
きました。例えば、
  ・ 私たちは喜んでアンドリュウ・マーレーの著作を読んでいます。"ケジック派の信
   仰は私たちと微妙に違います。"と言われても、私たちには区別がつきません。どう
   したら区別がつくのですか?(14号2000年11月p.5について)
  ・ 聖潔に与っている人が、罪と誘惑との区別がつかないということがあるのでしょ
   うか?(15号2000年12月p.3について)
などです。そのため、本号で補足しておきます。
 まずアンドリュウ・マーレーの書物について解説しておきましょう。彼の本で皆さんの目に入る
ものは、「祈りの生活」、「キリストのように」、「キリストと共に(祈りの学校)」、「絶えず祈りなさ
い」、「神を待ち望め」、「内なる生活」、「とりなしの祈り」などに代表される祈りに関するもの、
「キリストの御霊」、「至聖所」、「ペンテコステの祝福」、「信仰入門」、「謙遜」、「神癒」などでしょ
う。それから「子供の救いと親の責任」という書が発行されていますが、この本の原意は「子ど
も達をキリストへ」であって、この表題はマーレーの意図に合致していないようにみえます。むし
ろこれは「責任・義務」というよりも「課題とその対処の方法」と「神は課題とともに恵みを下さ
る」という視点で書かれたものです。彼の書物のほとんどすべては、全く気にせず私たちと同じ
ものとして読んでよいと思います。「同労者」11号に取りあげられている私たちと彼の違いは何
処にも書かれていません。それは彼の書物には、抜け落ちているのです。彼の書物の一カ所
だけを強調するような取り上げ方が許されるなら、私たちと全く同じ立場の表現もあります。た
とえば「主は、罪を取り除くために来られました。罪の行為とその罰だけではなく、罪そのもの
を取り除くために来られたのです。」(ペンテコステの祝福、p166)というように述べられています
が、これは私たちと同じ立場です。ただし、ケジック派の人々が皆そうなのではありません。
 なお、マーレーの「神癒」に関する見解は、ここで詳細には述べませんが、検討を要するでし
ょう。その信仰は、"医者に見せると神癒の機会を失う"というほどに徹底したもので、その思
想についていける人はついていってもかまいませんが、そのようにすると、"あの人は神癒神
癒と騒ぎながら死んだ。医者に手術してもらえばきっと助かっただろうに。"というような事例を
もたらすことでしょう。なぜなら皆が神癒の賜物を頂いているわけではないからです。
 違いがわかるようになることはどうすればできるのか、それは本物に精通してからそれに接
すると分かる、ということなのです。説教で時々取りあげられる例に、銀行員に本物の紙幣と偽
札の区別が分かるはなしがあります。いつも本物だけを扱っていると、混ざってきた偽札に気
づくというのです。比較宗教学という学問がありますが、この宗教はこういいます。こっちの宗
教はこういいます。と比較をするのです。全く違う宗教ならば、それでも間違わないかもしれま
せん。しかし、ごく似たようなものの違いを見分けるのに、本物に慣れないうちに、これが本物
の札です、これが偽札です、と絶えず比較させられても区別がつくようにならないのです。
 私たちが、本物の潔めに生きると、ケジック派に欠けたところが分かるのです。ウェスレーの
「キリスト者の完全」に精通することをおすすめします。もっと読める方は、まずパゼット・ウィル
クスの「救霊の動力」読んでから、キーンの「信仰の盈満」、ウッドの「全き愛」、ヒルス「潔めと
力」、クックの「新約の聖潔」などを繰り返し読むとよいでしょう。同じ本を繰り返し読むことが大
切です。
 なお、ジョン・ウェスレーがツィンツェンドルフの率いるモラビア派と教義の違いから別れはし
ましたが、彼らから経験と敬虔の宗教および熱く神を愛することを学んだように、私たちもケジ
ック派の人々と教義を一にしないまでも、その敬虔と熱く神を愛することを学ばなければなりま
せん。

 "罪と誘惑の区別がつかない"という問題は、本人が自覚をもってこれを考えはじめるならば
「ない」というほうが正しいでしょう。しかしそういうことを全く考えないで、そのような状態に陥っ
ていることがあると考えられるのです。本誌を通じてそれを考える必要があることを理解し、
「罪とは、実行した行為でも心の中だけの問題でも、キリストの律法に違反することを承知で、
それを実行する決断をすることである」という視点から自分の心の営みに目を向けることによ
って、そのような失敗を免れることができるようになるでしょう。



先月の質問の回答例(作成者:野澤)
1.どのようにして自分が潔められたことを知りますか。
 キリスト者の完全の中で、ジョン・ウェスレーはこの質問を取り上げこう回答しています。「以
前自分が義とされる時に経験したところよりも、さらに深くまた明白な確信をもって、生まれな
がらの罪について自覚させられ、また罪の自然に消滅して行くことを体験させられ た後、進ん
で罪については全く死んだもの、また神の愛と像とに全く再生させられたものとなり、常に喜
び、絶えず祈り、全てのこと感謝するに至ったとき、これがすなわち潔められた証拠である。た
だ全てにおいて愛を感じ、また罪のないものとされたという感情だけでは充分であるとはいえな
い。少数の人々は、その霊魂が全く再生される以前にしばらくそのような経験をすることがあ
る。それ故、義とされたとき聖霊が証詞して下さったのと同様に、聖とされたことについて聖霊
が明白に証詞して下さるまで、潔めの業が完成したとはいえない。」
 この問題は、アルミニアン・ウェスレアン神学の特色を端的に現している課題であって、本人
が受けた恵みを知ることそのものです。自分が潔められていることを知ることが無かったら、ウ
ェスレーの宣証した教えは全く架空の事であったとしか言えなくなります。
 まず、確かな「救いの経験」があることが必要です。救われていなかった時の自分と救われ
た後の自分に明確な差異を認めることができる確かな入信の経験がはじめにあったか否かが
問われます。そこで、自らの罪の自覚と悔改め、その罪から確かに救われたことが前提になけ
ればなりません。ただ単に神がおられるという思想を自分の思想として受け入れていこうとか、
認罪も罪の悔改めもなく神から離れていたという自覚もなく神を信じていこうと決心しただけの
段階で潔めを求めてもそれは虚しいことです。潔めは、確かな救いに与った人が、さらにまた
明白な第二の神経験に導かれることが出発点です。それは各々内容は異なるでしょうが、そ
れまでの不服従な行為や心に対する悔改めを伴うことが多いでしょう。よく開け渡して信ずると
潔められると教えられますが、多くの人々の潔めの証詞を考察してみると、"悔い改めて"潔め
に与ることが多いことが分かります。
 救いの与ると救いの確信が与えられるように、潔めに与ると潔めの確信が与えられます。
 この潔めの確信の根底にある"証詞"について、潔め派の間では以下の二つのことが取りあ
げらます。
  ・自分の霊の証詞
  ・聖霊の証詞
(1)自分の霊の証詞
 自分の心の姿を客観的に眺めてみたとき、かつては潔く無かったものであったが、今は潔く
されているといえる差異を自分が判断できることです。
 それには以下のようなことが伴います。
 自分のうちに、神の聖旨に対する従順、キリストの平和、聖霊による喜びと自由、兄弟に対
する愛、教えを受けることのできる謙遜があることが分かります。それには聖書のことばを畏
れる心の姿勢を伴いますし、聖霊が身近な方となっています。自分の心の内にあるものを神の
前にさらけだすことに対する怖れがなくなり、神の聖旨を恐れる心、自分の好まないところに連
れて行かれてしまうのではないかという恐怖心が除かれていることを自覚します。神が背後に
おいて働かれるという神への信頼を根拠に、神が遣わされた人の手に陥ることができます。こ
の世の富すなわち職業やお金、異性、この世の名誉・権力・地位等々、音楽や芸術や文学・学
問などこの世が提供するすべてのものに対する執着から解放され、神と神の国が第一となっ
ています。周囲の人々の罪を憂い、不義を憎みサタンの働きと戦う力を持ちます。そして重荷
を覚えて祈ることができます。
(2)聖霊の証詞
 これは聖霊が魂の内に直接与えてくださる直感です。自らが疑いはじめたりするとき、心の
内に聖霊が「あなたは潔い」と直接示してくださることです。



今月の質問
 次の問にまず自分で回答を考えてみて下さい。
1.聖霊の賜物とはなんですか?
2.潔められると聖霊の賜物を与えられるのですか?




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