「同労者」第17号(2001年2月)
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ショートコラムねだ 道路に立っている警察の標語である。うまいもんだな、と思いながらこの標語を見て通るが、 この「心懸け」はいろいろな方面において有効である。 子どもの時から今に至るまで心がけが悪かったので、下手な字とつきあっている。少し練習 してみようかなどと思って、字の上手い同僚にコツを聞いて見たりした。彼はその要点として 「文字を書くとき、ゆっくり、力を入れて書くとよいのですよ。」と教えてくれたが、私はそれを心 懸けなかった。Y牧師は私の書いたものをみてこういった。「この人の文はね、はじめは四角い 文字で始まるんだけど、だんだん丸い字になるんだよ。」書き始めは力を入れて書くのである が、書いているうちに力が抜けて、例のコツを守れないのである。 私たちが何かを身につけようとか、学ぼうとか、こんな人間であろうと思うとき、心懸けないと できないことが多い。望むことと心懸けることとの開きが顕れる。 S教会の若者には野球をしたい者が多い。野球が上手くなりたいならば、心懸けて練習しな ければなるまい。さらによく"考えて"練習することが大切である。柔術を柔道と名を改めた加 納氏は今で言えば大学教授である。彼は日本古来の武術である柔術に、論理的に考えること を付け加えたのである。理論武装された柔道は鍛錬のみを主体とする旧来の柔術を打ち破っ た。また自分だけで考えてもまだ不足である。そこに指導者の教えを受ける必要が生じる。指 導を受けながら練習に心懸ければ、きっともっと上手くなるに違いない。 人生、勉強したいとか資格をとりたいなどいろいろのことが起きてくる。そこで必要になること がこの心懸けである。望んでも心懸けができないと、筆者の文字同様、望みが望みだけで終 わるだろう。 字を書くことはだめでも、他のことでは心懸けることができるものがある。人間不思議なもの だ。そして心懸けが続けられることにはそれなりに成功する。心懸けた結果がでるのである。 家内に言わせると、"あなたは自分の好きなことだけができるのよ"(嫌いなことはできない)で ある。であるならば、最も大切なことが好きにならなければなるまい。自分の好きなことが最も 大切だと思うのではなく、神の与えて下さった仕事、使命が好きにならなければなるまい。 ウェスレーは"恩寵の手段"を行うことに心懸けなさいという。教会が好きになる、指導者であ る牧師が好きになる。集会が好きになる、聖書を読むことが好きになる。ちょっと表現がまず いかも知れないがお祈りが好きになるということは素晴らしいことではないか。 「神を愛する者は神に知られている者だから」である。 |