「同労者」第17号(2001年2月)
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(ジョン・ウェスレー) 私たちの掲げている信仰上の中心テーマは聖潔です。教会に所属する人々の年齢層が広 がり、自らの信仰で立っていかなければならない人々は、幼児は別としても少年も青年も壮年 も老人もいます。そしてそれぞれに男女がいます。聖潔に関わる課題には、どの年齢の人々 にも共通に当てはまることと、年齢や性別で異なる問題もあります。またその人の有様によっ て異なる問題もあります。例えば未婚の人には「妻を愛しなさい」とか「夫に従いなさい」とかい うことは問題になりません。このような例は明白ですが、以下のように年齢などでは線引きの 難しいことがらもあります。 「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、…そねみ、憤り、… ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19〜21)これらの肉の行いから離れ ていることが、聖潔の前提です。若いときには異性の問題が課題だと言います。しかし、年が 上がってから異性のことで失敗する人はたくさんいます。結婚したから性の誘惑がなくなると思 ってはなりません。また富への誘惑は年と共に増す恐れがあります。そしてうっかりしている と、神よりも老後の蓄えを信仰しているかも知れません。お金には、得るときも、蓄えるときも、 使うときもキリスト者に相応しくないあり方に引き込まれる誘惑があります。 聖潔の隣人に対する顕れは愛が中心です。ですから、愛は私たちが守るべきキリストの律法 を示しているのです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せ ず、高慢になりません。…すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍 びます。」(コリントT13::4〜8)これを当てはめると自らの潔めを量ることができます。これが私た ちに求められているものであることは言うまでもありません。 謙遜と忍耐とを求められた若者がいたとします。その人がいつの日か年齢が上がって、忍耐 しなくてもよいときがくるのでしょうか。結論は明かです。そのような年はやってきません。どの 年齢にも肉の行いは許されず、愛が求められるのです。青年には青年の、壮年には壮年の、 老人には老人の課題に対する愛が求めらています。日常生活の中で、この言葉、この行い は、愛に相応しいかという視点が判断に加えられることが望まれます。 「神を畏れる。」とは神の言葉の前に逃げずに立つことです。これこれのことをしないように、 あるいはこれこれのことをしなさい、というみことばに接したとき、聞き流すことが神を畏れない ことです。肉の行いを指摘するみことばにも、愛を求めるみことばにも心を閉ざすことがありま せんように。 |