「同労者」第18号(2001年3月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その13) −

 仙台聖泉キリスト教会 牧師 山本 嘉納


 我家の2歳の娘は、どっからか石を拾ってきてはおもちゃにしている。風呂に持って入って湯
船の底に沈めたり、コップの中でころころころがしたりして遊んでいる。たかが石ころだが娘に
は宝物のようである。聖書の聖言に「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うよう
な考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの
子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3:9)とある。パリサイ人の傲慢を責めておられ
るキリストの言葉であるが、旧約の歴史を振り返り神のイスラエルに対するお扱いを見ると、確
かに神の豊な哀れみと助けがあればこそである事がわかる。まさしく石ころに等しい私である
が、神は御目を留めて導いて下さりここまでにしてくださった事を牧師になり10年を迎える時に
思い感謝するものである。
アブラハムから数えると4代目のヨセフは、兄たちに売り飛ばされた先のエジプトで総理大臣に
なった。神は彼と、エジプトに7年の大豊作、それに続いての7年の大飢饉を用いて遊牧民の一
家に過ぎなかったヤコブの家族をイスラエルという国民に作り変えてくださった。もし、人が未
来を知りえたらどのようにそれを用いるだろうか。馬券を買って、大穴を当てて一攫千金。いや
いや株に投資したほうがもっと大きいお金が手に入る。よくは知らないが、先物取引という世界
があってゲームのように恐ろしい額のお金が動いているらしく、当然リスクは大きいがリターン
もすごいものらしい。次々と思い浮かぶがしかし、果たして誰が、その人の未来を知りえる力を
信用し信頼するのだろうかというお粗末なお話である。与えられた能力も用いられなければ意
味がない。ヨセフに力を与えたのは神である。それを見抜いて用いたのはエジプトのパロであ
る。最初、豊作の7年で労働力を結集してできるだけ多くの穀物を手に入れたパロは、働きに
見合う賃金をきちんと国民に支払った。払えば喜んで人々は働く。ここでケチるよりは国庫を
はたいてでも収穫を優先させるべきである。7年が過ぎて引き続き豊作ならパロはインフレで破
産であるが、飢饉になって国民や近隣の諸国は蓄えた金をはたいてヨセフを通して集められ
た穀物を買うのである。飢饉はこの後7年間続くのである。この世では、このパロの能力を高く
評価する。良い人材を見抜いて登用する。タイミングを見て投資する。成功者の鍵である事は
言うまでもない。しかし、豊作と飢饉を起こしヨセフを通して預言を与えたのは神である。蓄えた
金を使い果たした国民や諸国の民は、引き続き食料としての穀物を得る為に担保を出して借
りたり、労働力に対する賃金を前借りしたりして工面した。最後にはそれもなくなり穀物市場を
握っていたヨセフに哀れみを請い、ただで分け与えてもらったことだろう。人と人とが真に繋が
るのは、哀れみを通してである。異邦人ヤコブの家がエジプトで国家になるまで守られたの
は、哀れみ豊なヘブル人ヨセフの名声が何代も語り伝えられた為である。石ころが国民になっ
た経緯である。神の知恵が人に勝るのは当然だが、私たちがそれを見抜き信じることができ
るかがこの時代に生きる信仰者の鍵である。
サムエル記に話を戻さなければならない。サウル王の支持率が当時どれ位だったかはきちん
とした調査がなされていないのでわからない。わが国の現首相の支持率は10%を下回った状
態である。ヨセフは100%とは行かないまでも80から90%は行っていたであろうか。同様、ダビ
デ逃亡中のサウルの支持率は決して低くなかった。イスラエル国民は引き続きサウル王を立
てペリシテと戦わなければならなかった。逃げるダビデを追って何度か出陣しているが、早々
に引き返して公務にあたらなければならなかったのは直面している問題が容易でないことを物
語っている。ダビデのこの時点での支持率を考えてみるとゴリアテ退治や諸所の活躍でそれな
りに知られているが支持率調査に名前が載るかどうか位である。後継候補の末席位が良いと
こである。そんな彼を恐れたサウルを考えるとダビデの背後に見え隠れする神を恐れていたこ
とが伺える。ダビデにとっては、いつまでも逃亡者生活に甘んじているわけには行かない。神
が味方であり家族が支持してくれればそれでいいとするなら気も楽だが使命を受けた者として
は全うしたい後継の座である。そんな思いの中で飛び込んできたのがサムエル記T23章1、2
節にある『その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打
ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打
つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」』とい
う出来事である。訝る部下を説き伏せダビデは戦い勝利した。彼の同族ユダの町ケイラであ
る。当然、歓迎され城内に迎えられた。「一方、ダビデがケイラに行ったことがサウルに知らさ
れると、サウルは、『神は彼を私の手に渡された。ダビデはとびらとかんぬきのある町にはいっ
て、自分自身を閉じ込めてしまったからだ。』」(サムエルT23:7)と言って出陣した。この知らせを
聞いたダビデは神に伺い自らが命がけで助けたはずの同族に裏切られるという未来を知っ
た。「そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよ
った。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。」(サ
ムエルT23:13)ダビデの置かれている現状を彼自身に悟らせる為に神が用いた出来事である。
あせる思いを知りたもう神は支持率ならぬケイラの人々の弱さを用いて彼に忍耐することを教
えられた。神の訓練を理不尽と決め付け、へきへきしやすい私たちは前進もするが後退もしや
すい。もう少し留まれば見えてくる神のご計画を待ちきれずに踏み出してしまうことは、前に進
んでいる気になっているが実はさ迷っているに過ぎない。若いうちならば修復も利くが、責任者
位になり神との信頼関係を見失ってしまうとサウル王のようにただただ神を恐れ、人を恐れる
ものになってしまう。いつの間にか自らの優位性にこだわり自己防衛に終始し傲慢になってし
まったパリサイ人がいる。さ迷っているかに思える時こそ神の確信を待つ度量が必要である。
石ころダビデを拾い上げてくださった神は、今も生きて私たちを砂利道の中から拾い上げてく
ださる。神の召しに応えられる同労者として。
 


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