「同労者」第18号(2001年3月)                          目次に戻る

ショートコラムねだ

− 東京は町中線路だ −

 子供の頃の東京に関する記憶では、東京というところは町中線路であった。どこに行くにも電
車である。電車から見た東京は線路でいっぱいである。連れて行かれる所はみな線路のそば
にある。
 大人になってやっと、東京には線路以外のところが沢山あると分かった。これは例であって
私達の見ているのは、ことの全体のほんの一部分のサンプルにすぎないことを示している。
 私たちはしばしば人のことを話題にする。二人の間に立つ人が一方の話しのみを聞いたな
ら、きっと東京は町中線路という判断と同じことをしているに違いない。
 その口にそしり、非難のあるときは格別に注意が必要である。心にそしりを持つ人はしばし
ば判断を誤る。そしる心はそのひとの目を暗くするからである。「愛は人のした悪を思わず(そ
しらず)」(コリントT13:5)愛は人の目を確かにする。
 不安もまたその人に誤った判断をもたらしやすい。徒然草に登場する"ねこまた"事件のよう
なものだ。ある坊さんがへんぴなところに出かける用事があった。その界隈の村人のうわさ
に、最近ねこまたという怪物がでて人をとって喰らうという。用事が遅くなって暗い道を帰ってき
たら、なにやら動物が飛びついてきた。道ばたの小川に転げ落ち、「助けてくれーっ。ねこまた
だー。」と助けを呼んだ。助けがきて明るいところでみたら、飛びついてきたのは主人の帰りを
喜んだ自分の飼い犬だった。
「全き愛は懼れを除く。」(ヨハネT4:18文語訳)愛によって恐れが除かれることが人の目を確かに
する。
 だれがある人の全部を見られるであろうか。だからあのひとはこんな人だと決めつけるに
は、よほど確かな公平な視点に立った事実が必要である。
 先入観があると、ちょっとしたことにそれを結びつけて、やっぱりそうであったかなとど考えて
しまいやすい。自分が考えていることを説明したとき、それが正しく伝わらないことをしばしば経
験する。話していることを聞いている相手が、違って受け取るのである。まして間に人が入った
ならその内容は間に入る人数に連れてどんどん疑わしくなる。電話ゲームはその好例である。
私たちはゲームとしてげらげら笑いながら見ているが、電話ゲームでは二人目からもう違った
ことをいうのが常である。
 ことの把握をわたくしたちはどのようにしているであろうか。ひろく把握する努力をしているで
あろうか。また結論を早く出しすぎていないか問われる。
 自分の視点をもう一度考え直そうではないか。私たちが正しく判断したいならば、まず自分の
心を潔いものとしていただき、正しく見ることの出来る目を頂かなければなるまい。
 そして見聞きすることは全体のほんの一部であることを忘れてはならない。


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