「同労者」第18号(2001年3月)                          目次に戻る 

論  説
 ― 主の歩まれた道を歩む ―

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えない
で、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人と
しての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた
のです。」(ピリピ2:6〜8) 


 私たちの信じているのは「キリスト教」です。それは実にイエス・キリストとの関係によって成り
立っているものです。
 私たちは、はじめこのイエス・キリストのところにどのようなものがあるか知らずにおりました。
しかし人生に躓きを覚えたとき、あるいは明確にそのように自覚しなくとも、自分の今まで生き
てきた人生に不足を感じとり、誰かに勧められあるいは導かれてキリスト教の門を叩きました。
そこでキリストの救いを見いだしました。
 ああ、こんなところがあったのだ。これなら私にも生きていける。教会はそういうところであり
ました。教会に落ち着くまでは、その視点は自分中心でした。
 たいていの人々には、救われた後二つのことが起きてきます。一つはこんな素晴らしい救い
を隣人に語らずにはいられない、ということです。自分の親子兄弟親しい友人などが、かつて
の自分と同じところにいる、ということを覚えて、かれらにキリストの救いを語ることを致します。
もうひとつは、自分の姿がキリストの弟子に相応しくないことを感じて、キリストの弟子に相応し
いものになろうと思うことです。それまで考えずに行ってきたことの中にも罪であるものを見出
し、それを離れる必要を覚えます。そして救われたその喜びがそれらの罪の行いをやめさせて
くれます。キリストの救いはそのようなものに対する価値観の変化、つまり救われるまでは大事
だと思わなかった、罪から離れることと共に謙遜であるとか、忍耐深いとか、優しいとか、親切
であるとか、寛容であるとかといった心のあり方が大切なものである、ということに気づかせま
す。そして愛のすばらしさを周りの人々にも語ります。
 信仰生活をしばらく歩んで起きてくることに、これは罪なのだろうか、それとも罪ではないのだ
ろうか。この私の心にあるものは何だろうか、これは神様が許しておかれることだろうか、それ
ともそれをなんとかしなければならないことなのだろうか、という判断の迷いの問題がありま
す。
 そのとき私たちの前におかれる基準ともいうべきものは、キリストの心を自分の心とし、キリ
ストの歩まれたように歩みなさい、ということです。キリストが歩まれたように、ということは飲み
食いなど生活習慣のことを言っているのではありません。キリストは割礼を受けてユダヤ教の
習慣を守られましたから、私たちにはまねることができません。私たちに求められていること
は、冒頭のみことばのキリストの姿に示されています。主の歩まれた道を私たちも歩ませて頂
きましょう。


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