「同労者」第19号(2001年4月)                        目次に戻る

証 詞

救 い の 証 詞
中京聖泉キリスト教会  牧師  秋山直光


 あなたは、いつ、救われましたか……? 
 今から8年ほど前、牧師たちの研修会に参加していた時のことです。講師が私にそう聞いて
きました。というのも、当日の参加者30名ほどの中で、クリスチャン家庭に生まれ育ったの
は、なんと私ひとりだけだったからです。他の牧師さんは、みんな、"一世のクリスチャン"という
わけです。
 「小学校の3年生のクリスマスです。」 私はそう答えたように記憶しています。すると、その講
師はすこしひねって、質問し返してきました。「それじゃあ、あなたは、それ以前には救われて
いなかったのですか?」
 答えに窮している私をよそに、講師はこう続けました。「私も、実はクリスチャンの家庭に育っ
た人間です。でも自分がいつ救われたのかは、よく分からないのです。自分がいま救われてい
ることは確かです。でも、いつ救われたのかは分かりません」と。
 そう言われてみれば、私だってそうです。私をだしに使った講師をすこし恨めしく思いながら、
"そうなんだよなあ。救われた日と、救いの確信に立った日とが、いつでも同じというわけでは
ないんだよなあ。特に、クリスチャンの家庭に育った場合なんかは……"と、そう思ったことでし
た。

 この「同労者」の読者がどんな人たちなのかはよく知りません。でも、いわゆるクリスチャン二
世と言われる人たちも、少なくないのではないかと思うのです。私は"クリスチャン二世"どころ
か"牧師三世"なわけですが、そんな私が自分の救いのことをどう考えているかを証ししてみる
のも、ある人たちには助けになるかも知れない..............そう思って、この原稿を書き始めていると
ころです。

 前述のようなことがあってから、私はときどき、人前で、"私は創造主を信じるようになった日
がない"と胸を張ってあかしするようになりました。そうなんです。この日、この瞬間から、私は
創造主を信じた!という日が、私にはないのです。私にとって創造主はちょうど太陽のようなも
ので、創造主がおられるのは、朝になると太陽が昇るのと同じぐらい当たり前のことなのです。
太陽があることをわざわざ"信じる"人がないのと同じように、私は創造主を"信じる"ようになっ
た日がないのです。
 もちろん、私が救いの確信に立った日はありました。今から34年も前のことです。当時、小
学校3年生だった私は、救いということについて、実に自分勝手な考えをもっていました。私の
両親はクリスチャンであり牧師だ。私の祖父母もクリスチャンであり牧師だ。そのうえ私には5
組のおじさん、おばさんがいるが、みんなクリスチャンであり牧師をしている。だから当然、この
自分もクリスチャンなのだ......と。
 そんなことを知ってか、知らないでかは分かりませんが、私の父はクリスマスもせまったある
夜、私を呼んで個人伝道を始めました。マタイ7章13、14節が開かれました。「狭い門からはい
りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が
多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
 直光くん......、天国にはいる門は狭い門だよ。この門は人間がひとりずつしか通ることができ
ないんだ。あなたはお父さん、お母さんが牧師だ。おじいちゃん、おばあちゃんも牧師だ。親戚
にもクリスチャンがいっぱいいる。でもね、天国の門はお父さんやお母さんと一緒には通れな
いんだよ。その門のところで、"あなたはイエス様を信じて、罪が赦されていますか?"と聞かれ
る。そのとき、直光くん......、あなたはだいじょうぶかな?
 ええっ、みんなと一緒に通れないんだとしたら、自分はちっとも大丈夫かない。そう答えると父
は私を罪の悔い改めに導き、そのとき自覚していたすべての罪を告白したあとで、それじゃあ
その罪がゆるしていただけるように主イエスさまにお祈りしよう、と、導かれるままに祈ったこと
でした。
 祈っていると、胸は感無量で熱くなり、目からは次から次へと涙があふれてきます。つらいの
ではありません。何だかうれしくて、たまらないのです。そして祈り終わると、何とも言葉で言い
表わすことのできないほどの平安が体全体をつつんでいたことを昨日のことのように思い出し
ます。
 何日かたった、その年のクリスマス日曜日に、私は洗礼を受けました。これが、私が救いの
確信に立った日です。

 そんな証をしたあるとき、ある人が私にこう聞きました。"それじゃあ、直光先生は思春期をど
う乗り切ったんですか? 創造主のことが信じられなくなったりしたことはないんですか?"
 そうですねえ......、う〜ん......。考えてみると、私は"おぼこい男の子"として、ずいぶん素朴な思
春期を過ごしたように思います。信仰が揺れたことがなかったわけではありません。教会に行く
ことがイヤだったり、親が牧師であることが恥ずかしかったりしたことはあります。もちろん、洗
礼を受けてから、罪を犯したことは何度もあります。
 小学校の5年生のとき、こんな出来事がありました。ある日、学校の教室で、インテリの友だ
ちのひとりが私に近づいてきて、こう言いました。"おい、秋山。おまえんち、教会だろ。聖書に
は、右のほおを打たれたら左のほおを向けよと書いてあるっていうじゃん。おまえ、オレがほっ
ぺたぶったら、反対のほっぺたを差し出すか?" 私はそのとき、反論する勇気もなく、その友
人を無視するほどの大胆さもなく、煙に巻くほどの機転も利かず、ただもじもじしていただけの
ように覚えています。
 社会科のテストなので、起源について進化論的な答えが要求されているときに、自分の確信
にもとづいて聖書的な解答をするか、それとも教科書通りの答えをかいてちゃんと点数をもらう
ほうがいいか、迷ったことも何度もありました。そして大体のケースでは、妥協に流されてきた
ような気もします。
 それでも、"直光先生は、思春期に、創造主のことが信じられなくなったりしたことはないんで
すか?"と聞かれれば、"そうですねえ、ずいぶん灯火が消えかかったようなことはあったかも
知れませんが、まったく消えてしまったことはなかったと思いますよ"というところが、正直なとこ
ろです。

 やがて高校を卒業し、直接献身を表明して、3年間の準備期間を過ごしてから、神学校には
いるために21才でアメリカに渡りました。そして、みなさんよくご存じのKMBC(私はKMBIの呼
び名のほうが馴染みがありますが.....)に入学しました。そこで3年の学びをし、さらにベナード
大で1年半の学びを加えて、今から16年前の1985年に日本に帰ってきて、中京聖泉キリスト
教会の副牧師となりました。当時26才でした。
 最初の6年ほどは、父・秋山光雄牧師のもとで副牧という責任のない立場でしたが、やがて
父が森教会に転任になると、ひとつの地域教会の責任者という重い立場につくことになったわ
けです。当時32才でした。
 副牧の時代の奉仕は、言ってみれば、主任牧師の"補足"です。ところが、いざ一教会の責
任者となってみると、自分が語ることがその教会の土台となり、軸となっていくわけです。そこ
で、否応なく、直面しなければならなかったのが、"救いとは何か?""信仰とは何か?"……と
いうような、基本的な事柄の理解を整理し、教会の方々に語っていくという仕事です。
 救いって何だろう? 自分が体験したことならば、多少は分かります。でも、それは主観的な
体験でもあります。誰にでも当てはまることができる救いというもの、聖書がすべての人に伝え
ようとしているキリストの救いとは何だろう? 私はずいぶん戸惑いました。何しろ、私は〈創造
主を信じた!という経験のない牧師〉なのですから……。そんな私が、どうやって、聖書も知ら
ない、キリストも知らないという人々に福音を伝えていけばいいのでしょうか?
 今から数年前のお正月に、こんなことがありました。久しぶりに家族(おじいちゃん、おばあち
ゃん、弟の家族や妹)があつまって、"今晩は、みんなで廻転寿司でも食べに行こう!"という夕
方の6時ころ……。50年配の男性が"神様の話を聞きたい"と言って、玄関を訪ねてきたので
す。みんなは、私に目線で合図を送りながら、私も"終わったら、あとで行くから……"と目で合
図を返して、その人にあがってもらい聖書の話をしました。
 私は、初めての人にもなるべく分かりやすく…と心がけながら、創世記から始めてイエス様の
十字架まで、時間をかけて話して聞かせました。ところが相手の人は、どうもこっちの話を理解
していません。そこで私は、さっきの同じ話をすこし角度をかえて、再度方語って聞かせまし
た。それでも、相手の方には分かりません。とうとう私は、聖書の福音を3回どおり繰り返し、1
時間以上かかって最後にその人の言った言葉が、"う〜ん、今日はどうもよくわからんかっ
た!" 
 お腹はペコペコになり、急いでお店に出かけると、私を待ちながら寿司をつまんでいた家族
の同情のまなざしを受け、"どうだった?"と聞かれて、"まあ、ちょっと先に、食べさせて!"

 救いとは何? 信仰とは何? このことについて、当時よりはすこしは整理がついてきたかな
と思っていますが、でもまだまだこれからです。
 今、私が思っているのは、《信仰とは関係》ということです。信仰とは関係であり、相手がある
ことなのですよね。これは一見、当たり前のようですが、でも、このことがちゃんと整理がついて
いないと信仰に迷いが生じることがあると思うのです。教会にみえる方と話をしているとき、"私
はいまちゃんと信仰を持っているんだろうか?""なんだか、信仰がなくなったような気がする"
などと相談を受けるときに、特にそう思います。
 私はそんな相談を受けると、こう答えます。あのね、信仰というのは私とイエス様との関係で
す。たとえれば、私とイエス様とがしっかりと手を握りあっているようなものです。私たちは弱い
人間なので、しっかり信じていると思えるときもあれば、なんだか信仰がなくなったみたいと心
配になることもあります。でも、たとえ私たちの手から力が抜けるようなことがあったとしても、も
う片方で私をにぎっていてくださるイエス様の力は大きな力です。この方は、けっして私たちの
手を離してしまうようなことはないんですよ、と。
 そう話すと、聞いた方は安心してくれます。でも、これは単なる気休めの言葉でしょうか? 信
仰って、そんな甘っちょろいもんでいいんでしょうか? 私は、それが甘いか甘くないかは分か
りませんが、信仰とは自分ひとりでやっているもんじゃない、信仰には相手があるんだというこ
とが分かることは、信仰の本質そのものであり、安定した信仰生活には欠かすことのできない
理解だと確信しています。
 信仰とは関係です。イエス様をとおして、天地万物の創造主とつながっている関係です。それ
も十字架の赦しをとおして与えられた、創造主との和解の関係、平和の関係です。
 幼いときの話を、もう一度しましょう。私はちいさい頃、創造主の存在を疑ったことは一度もあ
りませんでしたが、創造主の存在が"ありがたくない"と思ったことは何度もありました。何か悪
さをしようとすると、創造主が見ているという感覚が邪魔をします。なんでボクだけ! 創造主を
知らないほうがずっと楽じゃないか!という具合です。まさに存在を打ち消すことができないの
に、煙たい存在でもありました。
 同じ「関係」でも、そんな関係では救いにはなりませんよね。イエス様の十字架をとおして、信
じる私たちに与えられるのは、創造主との和解の関係であり、平和の関係です。創造主が見て
いて困る!ではなく、創造主に見ていてもらって安心だ、感謝だという関係です。
 これが永遠のいのちであり、救いであると考えています。

 最初の話にもどりますが、そうしてみると、私が救われたのはいつなのかなあと考えるわけで
す。もちろん、救いの確信に立ち、洗礼を受けた小学校3年生のクリスマス以前にも、私は創
造主を信じてはいたし、救われていなかったとは言えないと思っています。
 でも、それでもやっぱり、私はいつ救われたのだろうかと問えば、やはり救いの確信に立った
あの時を思い出し、あの時のことを証ししていけばいいんだと今では思っています。
 いつの日か、天国にかえったときに、主イエス様が"あなたが救われたのは、実はこのときだ
ったよ"というかも知れません。そのとき、私は"ええっ、あの時だったでしたか! いやあ、そ
れじゃ、ずうっと勘違いしてきた!"と答えるかも知れません。それもそれで、楽しい話じゃない
でしょうか?

 昨今、中京聖泉キリスト教会で、救われる人がすこしずつ起こされてきました。感謝なことで
す。そして救われた人の証を聞くことは、また恵みあふれる感謝なことです。
 いろいろな方に触れて感じることは、創造主はいまも生きておられるということ、そして創造
主が生きておられるので、信仰によって創造主との救いの関係に生き始める人がどんどん起
こされていくということです。最近信仰をもたれた方々の証に共通していることは、創造主が働
いてくださっている"手応え"をもっているということです。これは嬉しいことですよね。
 信仰が独り相撲じゃない、ってことでしょう。相手がいるのです。イエス様の十字架をとおし
て、創造主といのちのパイプがつながっているのです。そこから、創造主のいのちが永遠に流
れてくるのです。そして信じた人を満たし、祝福を与えていきます。
 イエス様がおっしゃったじゃないですか! 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの
創造主であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 ヨハネにとっ
て、〈信じる〉とは〈知る〉ことです。これは単なる知識ではありません。知識は人を生かしたり、
変えたりはしませんが、〈キリストを知ること〉は人を生かし、人を変えます。
 すばらしいことですよね。イエス様によって、救われているということは! 先日、仏式の葬儀
に出てきました。近所の方が亡くなったからでした。町の斎場をつかっておこなわれたその葬
儀には、参列者は50名ほどの簡素なものでしたが、御導師さま(葬儀をする僧侶)が3人もつ
く、"豪勢"な葬儀でした。そのお坊さんが唱えている文言は、終始なんだかわかりにくかったの
ですが、途中でほんのちょっとだけ理解できる言葉がありました。それは、"………本人、知る
や知らぬや、知れずとも………"というくだりです。こういうことです。この、亡くなった方が、生
前"みほとけ"を熱心に拝んでいた人かどうかは分からないが、今こうやって念仏を唱えている
ので、どうか成仏させてやってほしい......
.....というらしいのです。
 私は、内心おかしいやら、可愛そうなやらで、その場を過ごしていました。それが仏教の限界
でした。亡くなった方が極楽に行けたかどうかは、定かではないのです。ですから、残された人
たちが、故人のご冥福を祈るのです。
 ところが、どうでしょう! クリスチャンは、生きている間に、永遠のいのちに生きることができ
るのです。イエス様の十字架によって、罪ゆるされて永遠のいのちをいただいていることを実
感し、手応えを感じて生きていくことができるのです。これがクリスチャンの体験であり、特権で
す。
 あなたは、いつ、救われましたか……? 
 いつ、ということは、はっきりとは言えませんが、でも今、私は救われています。そして救いを
感謝しています。救いは事実です。キリストの救いには、手応えがあります。イエス様が死ん
で、よみがえられたからです。
 



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