「同労者」第19号(2001年4月)
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巻頭言
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、
志を一つにして下さい。」(ピリピ2:2)
今年、仙台教会は創立50周年を迎えます。この記念の年に際して、私も色々な思い、又こ
れからの事を思い巡らします。
創立の時の小嶋先生、そして山本先生が仙台にいらっしゃった時のことなどは、まだ2歳だ
った私には覚えがありません。
聖泉の発足の出来事も、現在の教会の会堂建築についても若い頃の私には、先輩方のあ
つい祈りが集会のたびあったことをうっすら覚えているくらいで、そこには私の闘いはありませ んでした。しかし長い歴史の中で私も神様と教会の中で養い育てられてきました。すこしずつ、 果たすべき役割が与えられ、その責任の中に働きをなしています。
新しい世紀になり、この教会の記念の時を思うたび、"教会の喜びって何だろう。"と、考えさ
せられます。私たちの教会も初代、1世の方から、2世そして3世の代へと変わってきていま す。そしてその中で私も何かをやらなければと思わされはじめています。しかし、それは大きな ことをとか、誰かの評価をいただこうと考えている訳ではありません。怖じ気づいて立ちすく竦 んでいるのでもありません。先を歩まれた先輩方の大切にしてきた信仰のバトンを受け継いで いかなければならない所に今あることを思わされます。新しい時代だから何か新しいものを、 それも必要かもしれません。しかし大切なものは、大きな量やそれらのものではなく、神様から 委ねられている働きはすぐ前にたくさんあり、それは友と一緒に歩むこと、喜びあうことの中に あることを思います。
今立派な教会(建物)があります。神様の恵みと先輩方の信仰の戦いの故に素晴らしい教会
が与えられています。私もこれから教会を建てていきたいと思っています。それは見えない、形 の無いものですが、次の世代の者たちから、すばらしい教会を造って残してくれた、と言われ れるように、導かれて担うべきものがあったら私も担わせて頂きたいと思います。そしてその担 うことが、私はそれは歯を食いしばってやったんだとか石にかじりついてもがんばったんだと思 うのではなく、教会の喜び、私の喜びとしていけるものになりたく、そして神様の聖きに近づくも のとして歩ませていただきたく願っています。 |