「同労者」第19号(2001年4月)                          目次に戻る

ショートコラムねだ

− はじめの愛 −

 銀色夏生(ぎんいろなつお)という詩人がいる。彼の詩集は俵万智の「サラダ記念日」のよう
には売れない。しかし、どこの本屋さんにいっても文庫本のあるところにはたいてい置かれて
いる。若者たちのあいだで少しずつ売れているにちがいない。
 彼の詩集に次のような詩が載せられていた。

   人はなぜ最初のいいところを
   忘れてしまうのだろう
   また
   人はなぜ
   最初の頃のように
   ふるまわなくなるのだろう

 今は4月である。「ピカピカの1年生」がいる。しかし、しばらくすると馴れ馴れしい1年生にな
る。
 妻はいつまでも新妻ではなく、初々しい新入社員はいつの間にか、キャリヤ・ウーマンなるも
のに変身する。
 新婚のとき妻とふたりで持った家拝も終わりになり、夫を送り出す時祈った妻の祈りも終わり
になる。
 変わってはならないのか、というとそうでもない。変わって当然なのである。しかし、忘れては
ならないものがある。
 聖書には、ヤコブは彼に対するラバンの態度が、以前のようでないことに気づいた。(創世記
31:2)などという記事もある。
ラバンは変わってしまったのである。

 人間の救いにおいてもそうである。人はなぜ「初めの愛」を忘れてしまうのだろう。
 神がモーセにイスラエルをエジプトから連れ出させ、約束の地カナンに入らせるにあたって繰
り返し述べておられることは、あなたがたは忘れないようにしなさい、ということであった。
「私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思
い出さず・・主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。・・し
かし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。」(詩篇106:7、8、13)
 ヨシュアがイスラエルを率いてカナンの地に入っていった時、ヨルダン川の河床から12の石
を運んで記念の塚としたのも、その出来事、神の大いなる不思議なみ業をもってをそこに入る
ことを許された事実を忘れさせないためであった。

「(エペソにある教会よ)あなたはよく忍耐してわたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなか
った。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙
示2:3〜4)
 聖泉連合の初めの愛とはどのようなものであったろうか?


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