「同労者」第20号(2001年5月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は巻末にあります。



今月もまず回答例をあげてみましょう。

先回の質問の回答例(作成者:野澤)
 先月(4月号)の質問は
1.旧約の予言者たちも奇蹟を行いましたが、その奇蹟にはどのような意味がありますか?
でした。
 旧約の予言者たちの間にあった奇蹟というものは、次のように区分して考えるとよいでしょ
う。その一つは、困難な状況を奇跡的に救助されたというもの、もう一つは主がなされたのと同
様に、予言者が主体となって奇蹟を行ったといえるものです。質問の主体は後の場合について
ですが、初めの場合についても例を挙げておきます。

 <神の奇跡的助け>
 聖書には神と共に歩んだ人々に対する神の奇跡的な助けが数多く記されています。その中
からほんの数例ですが取りあげておきましょう。

・モーセ・・イスラエルを引き連れて乾いた紅海を渡ったこと。
「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸
地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで
行った。水は彼らのために右と左で壁となった。」(出エジプト14:21〜22)

・ヨシュア・・イスラエルを引き連れて流れのせき止められたヨルダン川を渡ったこと
「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭に
いた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、
――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――上から流れ下る水はつ
っ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラ
バの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面すると
ころを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと
立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わっ
た。」(ヨシュア3:14〜17)

・ヨシュア・・一日の時間が延長された戦いの日
「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見てい
る前で言った。『日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。』民がその敵に復讐する
まで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうし
て、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。主が人の声を
聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからであ
る。」(ヨシュア10:12〜14)

・エリヤ・・養われたシドンのツァレファテのやもめの家のこと
「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それ
を食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなく
ならなかった。」(列王記T17:15〜16)

・シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ・・燃える炉の中に投げ入れられたこと
「そこで、この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の
中に投げ込まれた。王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、
アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。シャデラク、メシャク、アベデ・
ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ・・そこで、シャデラク、メシャ
ク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人た
ちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わら
ず、火のにおいもしなかった。」(ダニエル3:21〜27)

・ダニエル・・投げ込まれた獅子の穴のこと
「そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエ
ルに話しかけて言った。『あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。』一つ
の石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴人たちの印でそれを封
印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。こうして王は宮殿に帰り、一晩中断
食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。王は夜明けに日が輝き出
すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びか
け、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなた
を獅子から救うことができたか。』すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられま
すように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も
加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあな
たにも、何も悪いことをしていません。』そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと
命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼してい
たからである。」(ダニエル6:16〜24)
 これらは、神の助けであって、神の救いに関わる真理を示すものです。キリスト教界では、そ
れを"型"ということばで呼んでいます。例えば、最初のモーセの記事は、私たちが「救われる」
内容を教える型である、二番目のヨシュアの記事は私たちが「潔められる」ことを示す型である
と信じられています。
 神はこれらの奇蹟の中に私達の救いの内容と、神が私たちを救われるお方であることを示し
ておられます。

 <奇蹟の業>
 奇蹟の業はエリシャに集中しています。イエスはバプテスマのヨハネの後に来られました。エ
リヤはバプテスマのヨハネの型なのです。
「イエスは答えて言われた。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは
言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対し
て好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしていま
す。』そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」
(マタイ1711〜13)
 エリヤの後に来たエリシャはイエスの型であることは言うまでもありません。エリシャの行った
業とイエスの業には多くの類似点があります。幾つか例を挙げてみましょう。

・わずかのパンで大勢の人に給食し、多くの余りがでる
「ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋
の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい。」と命じた。彼の召
使は、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。」と言った。しかし、エリシャは言っ
た。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」
そこで、召使が彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。」(列王
記U4:42〜44)・・比較:(ヨハネ6:1〜14) 五つのパンと二匹の魚で5000人に給食し、あまりが1
2のかごいっぱいになった、イエスのなされた業。

・ライ病人のきよめ(癒し)
「アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によ
ってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかって
いた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来てい
た。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。『もし、ご主人さまがサマリヤ
にいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるで
しょうに。』・・
こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使
いをやって、言った。『ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あな
たのからだが元どおりになってきよくなります。』しかしナアマンは怒って去り、・・こうして、彼は
怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『わが父よ。あの預言
者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのでは
ありませんか。ただ、彼はあなたに「身を洗って、きよくなりなさい。」と言っただけではありませ
んか。』そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸
した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(列王
記U5:14)・・比較:(マタイ8:1〜3)らい病人のきよめ

・死人の甦えり
「・・エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。エリシャは中
にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。・・子どもは七回くしゃみをして目を開
いた。彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲハジが
彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱
き上げなさい。」と言った。彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをし
た。そして、子どもを抱き上げて出て行った。」(列王記U4:8〜37)・・比較:(ヨハネ11:146)ラザロ
の復活
  聖書に見る限り、奇蹟はそんなに自由に行われてはいません。エジプトで呪法師たちがパ
ロのためにモーセに対抗して魔術を行い、杖を蛇に変えたこと(出エジプト7:11)、水を血に変え
たこと(出エジプト7:22)、蛙をエジプトの地にはい上らせたこと(出エジプト8:7)などが記されている
のみで、予言者以外の人物に奇蹟の癒しなどができたということは全く記されておりません。
 エリシャの行った奇蹟の業は、来たらんとするお方"キリスト"を、旧約聖書を学ぶ人々が悟
るためでした。彼はキリストはどんなお方であるかを示したのです。それが、彼に奇蹟の業が
与えられた理由です。
 先々月、先月、今月と三回に渡って、主イエスご自身の奇蹟、弟子たちの奇蹟、予言者たち
の行った奇跡について学びました。その全体を貫いている一事はイエスがキリストであること
の証明のために、神はこれらの奇蹟をおきなさった、ということです。


今月の質問
1.聖書の霊感とは何ですか?
また、まずご自分で回答を考えてみて下さい。




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