「同労者」第20号(2001年5月)                         目次に戻る 

旅行記

― 聖地旅行見聞記 (2) ―

森聖泉キリスト教会  牧師 秋山 光雄

聖地旅行日程    1986年11月14日〜11月25日 (13日間)
日/曜日 出発地−到着地 主な訪問・見学地
15/土 チューリヒ・ジュネーブ・カイロ
(シェラトンホテル)
ジュネーブ市内観光
サンピエトロ寺院、ばら公園、宗教改革記念碑、
ブランズウィック碑、レマン湖


11月15日(土)
 早朝、長途の旅を運んだSR179便はスイスのチューリヒ空港に到着。「寒いぞ。」と脅かされ
ていた割には大した寒さも感ぜず一休みして別の飛行機に乗り換えジュネーブに向かう。隣席
に健康そうな若い娘が座り、何か英語で話しかけてきたが残念ながら見当がつかない。しか
し、どうやら「あなたはどこから?ワタシはインドネシヤのバリ島よ」と言うらしい。私が地図を差
し出すと彼女はバリ島を指で示しにっこり。私も英語が話せたら「何処へ行くの?
何しに行くの?」と聞きたかったが、返事されてもまた答えに困るだろうと思って「うん うん」とう
なずいて笑顔を返しただけだった。
 3−40分の飛行で現地時間の朝8時05分、ジュネーブ空港到着。小雨のため少し薄暗い空港
で所定の入国手続きを経て荷物を受け取り待機していたバスに乗り込む。現地の旅行社の手
配のもので何でもジュネーブに2台しかないという二階建ての豪華なバスとのこと、現地旅行社
の日本人男性のガイドによって市内見物。コースを正確には覚えていないが国連本部、赤十
字本部、ILO、ブランズウィック記念碑、ばら公園、レマン湖、宗教改革記念碑、サンピエール
寺院、カルビン神学校、ロシヤ正教会などを見て回ったと思う。その中、下車して訪れたのは、
宗教改革祈念碑と隣接のsナンピエール寺院。ブランズウィック碑、(何でもこの人はレマン湖
をあいして自分の墓とここに葬って貰いたいと巨額の寄付金をスイスに贈った人とのことだっ
た)そして、ばら公園とその隣のレマン湖。


サンピエール寺院


 宗教改革記念碑公園の広場には、マロニエやアカシヤの落葉がいっぱいあり、河村姉に頼
まれていたので何枚か拾って置いた。その近くのサンピエール寺院、カルビン神学校の庭、兵
器庫などを見学、エレミヤ像にもお目に掛かった。ジュネーブのシンボルのサンピエール寺院
の緑色の尖塔は60メートルもあり、ひときわ高く美しく聳えていた。とにかく教会は立派で、西
欧圏の教会の社会的位置を印象づけられる思いである。(なんで教会なのに寺院と呼ぶの
か?)
 有名なレマン湖畔で写真をパチリ。WHO(世界保健機構)の構内に笹川良一氏の胸像があ
るとか、何でも彼が3億も献金した事の顕彰らしいが右翼のフィクサーの感じでモーターボート
界に君臨している顔役の彼に私は個人的には余り好感がもてないのだが。
 昼食は美味しい牛肉の店だった。沸騰した油の中へ鉄の長い串に牛肉を突き刺して少々揚
げタレをつけて食べるのだが軽くて中々美味しかった。「これなら帰ってから真似ができるナ」と
思わされた。何でも一人前、4,000円だったらしい。
 13時、バスでジュネーブ空港へ。SR機で15時ジュネーブを発ち、一路エジプトのカイロを目
指す。この機も窓際に恵まれラッキーだったが雲海で下は見えず、ただきのこ雲のような縦長
の雲の形を珍しく眺めた。ジュネーブの街では「日本人のお客様歓迎」と日の丸の図案に日本
語で呼びかけている看板の店があり、そこで初めて買い物をした。店員も日本人で日本語で
買い物が出来たが噂に聞いていた日本また日本人の影響力を肌で感じた次第。しかし同時に
日本人の思い上がりや国民性に少なからず危惧をも感じた。日本は経済力で世界に浸透する
のではなく、心と魂の豊かさで貢献しないと世界から嫌われ者になるのではあるまいか。何と
いっても精神的バックボーンを持たず、敗戦の憂き目を見たとはいえ自由への代価を払わず
自由を与えられた幸運が、そして得た繁栄が、真の祝福になるか否か、解答は日本人がこれ
から出してゆかねばなるまい。最近急速な右傾化や国力隆盛が、神の与えた自由のはき違え
にならなけらばよいが・・。
 4〜5時間の飛行であろうか、夜のカイロの街は宝石をばらまいたような美しい夜景で私たち
を迎えてくれた。機は大きく右に旋回してぐんぐん高度を下げ、人口1,600万の大都市カイロの
空港に着陸した。


カイロの裏通り・・スラム街




カイロ裏通りの露店



 空港では梶夫人が何の理由か検問に掛かりちょっと足止めを食ったが程なく出てきてホット
した。長い通路を歩いて外に出る間、小銃を肩にしたエジプト兵の姿がなんとなく不気味だっ
た。言葉、習慣が分からない事は何と言っても人間の壁である。バベルの反逆によって言葉を
乱されたことは後世の幾星霜、人類の負わねばならぬ神の鉄槌かも知れない。

  空港から宿舎のシェラトンホテルへ。何処をどう走ったか分からないが、ともかくホテル到
着ロビーでは馬鹿でかい音量の音楽が鳴りひびき(ダンスかデスコでもやっていたのか)その
騒音の中で河谷氏の案内もかき消される有り様である。


シェラトンホテルの部屋にて(著者)


シェラトンホテルからの展望
ホテルは有馬師と同室となり(以後ずっと二人は相部屋だった)9階の913号室へ落ち着く。入
浴、簡単な洗濯を済まる。ひげ剃りを荷物に仕舞いこんだ為かなりボウボウだった髭もやっと
始末できた。機内泊があっただけで実質的なホテル宿泊は第一夜というわけである。中々立
派なホテルだ。祈って床に就いたのは11時を廻っていたようだ。大いなる聖手の翼に運ばれ
て、この地で眠る一夜を尊く思いつつ、いつしか深い眠りに就いた。(つづく)





目次に戻る     表紙に戻る