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          「同労者」第21号(2001年6月)
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          巻頭言 
          「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役
           
          に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2:14) 
          「たとい・・あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持って
           
          いても、愛がないなら、何の値うちもありません。」(コリントT13:2) 
           キリスト教の信仰に生きようとするとき、聖書に記されている神とその救いの道に関する知識
           
          を持つことは不可欠です。さらに、神はあなたがたはこれを信じなさい、このように変わりなさ い、これを行いなさい、と命令されています。私たちは、それを信じ、自らの心の姿を変えて頂 き、神の行えと命令されたことを行わなければなりません。そのとき私たちは、イエス・キリスト の恵みを知り、神経験というものを持つことが許されます。 
           先日、仙台教会の祈祷会の時に、石井勝君は5桁の数字の5つ位の加減算なら暗算で即座
           
          にできると、彼の珠算、ソロバンのことが話題にされていました。彼がどのような腕前なのか知 りませんが、その話を聞きながら私は次のようなことに思い至りました。 
           私たちはソロバンについて知っていますが、その内容は、ソロバンの由来であったり、ソロバ
           
          ンの寸法や四つ珠のソロバンと五つ珠のソロバンがあることであったり、中にはソロバン珠が 象牙や高価な石のものがあることであったり、桟の竹の種類や枠がどのようなものであったと か、それに使われる漆や、某えらい人に彫り物のあるソロバンが献上されたとか、私たちが普 通買い求めるのはプラスチック製だとかといった類です。そして使い方も知っています。 
           けれども、私は役に立つようには使えません。知っていてもソロバンが出来ないのです。それ
           
          で「知っている」ということの意味が今更の如く分かりました。 
           私たちの信仰は、このソロバンを知っている類であってはならないと思うのです。
           
          
           聖書の由来も知っています。聖書に何が書かれてあるかも知っています。けれどもその知識
           
          がソロバンを知っているようなものであって、表現がちょっと変かもしれませんが、それを使うこ とができなかったら、聖書を知っているということが何の役に立つでしょうか。 
           私たちは、イエス・キリストが十字架に架かられて私たちに罪の赦しと新しい命を備えて下さ
           
          ったことを知っています。その赦しと新生を持っているでしょうか。愛は最高のものであることを 知っています。その愛を持っているでしょうか。 
           「・・あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えに
           
          なるため」とイエスは言われました。前述のことは、私たちがこれらを得ているか、どうしたら 「使える」ものとなるか考え直す機会となりました。  |