「同労者」第21号(2001年6月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は巻末にあります。



今月もまず回答例をあげてみましょう。

先回の質問の回答例(作成者:野澤)
 先月(5月号)の質問は
1.聖書の霊感とは何ですか?
でした。今月も回答例をあげてみますので、皆さんのものと比較して下さい。これはあくまでも
例であって、これでなければいけないというものではありません。そのつもりで読んで下さい。

・「聖書の霊感」の重要性
 日本のクリスチャンたちの間で、聖書信仰ということが叫ばれてから、久しく時間が経ちまし
た。聖書が神によって霊感された神の書であることは、聖書信仰の基礎であって、これ抜きに
聖書信仰はあり得ません。聖書の霊感はそのように重要なことです。私たちが聖書信仰に立
っていなかったなら、私たちは信仰の土台を持たないものであり、まさに「砂の上に家を建てる
愚かな人々」となります。

・「霊感」の意味
 キリスト教を信じる人々の間で、「聖書は神の書(ことば)である」ということを論じるとき、この
霊感ということが取りあげられますが、霊感ということばが使われる理由は以下の聖書記事に
よります。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(テ
モテU3:16)
「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神の
ことばを語ったのだからです。」(ペテロU1:21)
 ウォ−フィールドという人はその著書の中で霊感という用語を以下のように定義しています。
「霊感とは、通常、神の御霊によって聖書記者に与えられた超自然的影響であり、それによっ
て彼らの著作が神的な真実性をあたえらるもの、と定義される。」(「聖書の霊感と権威」、新教
出版社、1959、p.112)
 超自然的影響といっても、サウル王が恍惚状態になって予言した(サムエルT19:23)ように、人
間があたかも神が書かれる機械になったというのではありません。聖書を書いた人間は、普通
に歴史を編纂したり、神の戒めを書いたり、詩を書いたり、手紙を書いたりしたのです。そのよ
うに人間が普通の行動を取る背後にあって神は働かれ、その著作を神の書とされたのです。

・霊感の対象
 上述の内容は聖書が書かれた時に神が働かれて神の書を著作された、ということに関して
です。けれども、私たちは聖書の霊感について以下の三つを考える必要があります。
   聖書が書かれた時に働いた神の霊感
   聖書が編纂された時に働いた神の霊感
   聖書を読むときに働く神の霊感
つまり更に、聖書の編纂にあたっても、またそれが読まれるときにも神は働かれるのです。
 聖書の編纂に当たって、どれが神の書であるかということを決定できたことは、人間の範囲
の出来事ではありません。人間は自分の先入観や都合でそれを選びます。カトリック教会は、
プロテスタントが外典と呼ぶ著作を、聖書の中に入れてしまいました。それはカトリックの教義
を擁護するためでした。プロテスタントのある人々はカトリックの学者達と新共同訳という聖書
を作り、その中にカトリックの主張を入れて外典を編入しました。これは憂うべき事態なので
す。きっと後の世代が外典も神のことばだとする誤りを犯すことでしょう。
「私は、この書(聖書)の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える
者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のこと
ばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、そ
の人の受ける分を取り除かれる。」(黙示22:18〜19)
 いずれにしても、聖書の編纂に当たっては、聖書が書かれたときと同様に神の導きがあった
と考えるのが当然です。
 私たちが信仰の歩みをするとき、その時々に相応しい教え、神の教導があります。聖書はす
べて神のことばではありますが、その神の教導に用いられるのは、聖書全体でなくただ一言葉
であることがほとんどです。神は聖書のことばを用いて私たちに語られます。聖霊の助けを頂
かないならば、どれが真に神の語りかけなのか見分けがつきません。そこに聖書を読むときに
与えられる神の霊感があります。


今月の質問
1.キリスト教は啓示宗教だといいますが、その「啓示」とはどのようなものですか?
また、まずご自分で回答を考えてみて下さい。



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