「同労者」第21号(2001年6月)
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11月16日(日)
エジプトでの夜明け、窓辺から見える超高層ビル群やナイル河、そしてカイロのシンボルのカ
イロ塔が朝日の逆光の中に浮かぶ姿は幻想的であった。朝食はパンとちょっとしたサラダとコ ーヒーだが、元来和食党でパン、コーヒーを好まぬ私には少々合わなかった。それに旅の疲れ か、或い数回の機内食もほんの少し口にしただけの体力低下か、食欲がない。朝食後ホテル の一室で聖日礼拝。この朝は河野師のメッセージで「私の出エジプト」と題して「若き司」をテー マに御言葉を取り次がれた。
午前のプログラムはエジプト博物館の見学。カイロの街で驚いた事は三つ。@は雑然とした
交通状態。聞けば殆ど信号がないとのこと。車車車…。人人人…。バイクと自転車と入り乱れ 道路にはあらゆるものが、ごった返している。よくぞ事故がおこらぬものと慄然とする。Aは街 全体の汚さ、無秩序さ。表通りはともかく一歩裏通りに入ると、廃屋なのか潰れたままの家、テ ント張りの露店の無造作に並べられた果物の脇でロバか馬か、むしゃむしゃと餌を食べてい る。何となく貧しさ、治安の悪さを感ずる。Bはそれにも関わらず人々の表情は精悍というか生 気と言う逞しい野性味が溢れている感じが汲み取れる。
博物館(大英博物館、スミソニアン博物館と並ぶ世界三大博物館とのこと)前は大変な雑踏
であり物売りの商人が様々な飾り者や装身具などを我々目当てに殺到してくる。ガイドの河谷 氏は「手にしたら買わされてしまうから注意せよ」と言葉を繰り返す。ガイドはいろいろな面のガ イドもしなければならないのだなと改めて思わされた。館内を見物した歩いたが、その頃より疲 れがひどくなり風邪特有の兆候が起きてきたため列から離れて腰をおろすことが多くなり先行 きが不安になってきた。
博物館の次はコプト教会の見学である。コプト教会とはエジプトにおけるプロテスタント教会
だそうだ(一応は)。しかし、その神学は日本や欧米に比べて相当逸脱しているようである。と にかくユダヤ教でもなく回教でも、カトリックでもないプロテスタント系なのだそうな。曲がりくねっ た ![]() ![]() ![]()
狭く細い路地を歩いていくと中から歌声が聞こえてくるが様子は分からない。私は気分の悪さ
も手伝ってきたので一人バスに戻り車のなかにで待っていた。昼食はエジプトの特別料理と聞 いた外米を炒めたチャーハン風のもので、それを一口食べたら急に吐きそうになったので止 めた。
次の予定はピラミッド見学だったが私は河谷氏に断ってホテルに戻り寝ることにした。部屋で
ウトウトしていたらノックの音がした。こちらの返事も聞かずいきなりドアを開け2人ホテルボー イが顔を出した。私はとっさに寄せ集め英語で弁明した。
オールメンバー、ゴー、ピラミッド。バット アイム イル。
ビコーズ、アイ リターン ツー ベット。
とやったら、分かったらしく大声で「OK OK I am sorry」と片手をあげて出ていった。私の
英語もどうやら通じたらしい。何となく嬉しいような気持ちになり一人で笑いが込み上げてきた。 そう言えばスイスの店でも私はかなり、いい加減な英語を駆使して話し掛けたものだった。ベッ トで物思いに耽った訳だが昨日もジュネーブのバスの中で私は証を交えたこんな自己紹介をし た。
「私の生涯は何か10年目毎に節目があるようです。
1947(昭和22)年 故郷を出て就職のため横浜へ。
1957(昭和32)年 神学校を出て牧師となり伝道の第一線へ。
1966(昭和41)年 転任で名古屋へ。
1976(昭和51)年 開拓伝道で豊明へ。
1986(昭和61)年 聖地旅行へ。
この次の10年目の昭和71(1996)年には天国へ旅立つかも知れません。…」
(1997年 入院・・・追記)
みんな大笑いだったが、それはともかく回顧すると10年刻みの恵みの跡が残っている。今こう
して主の導きでエジプトのホテルにいる事を小さな事としてはならない。役立たずな親であるの に日本にいる妻や子供たちが恵みの中を歩いてくれる姿を思う時、ただただ恩寵がこみあげ てくる。主のご期待に少しでも添う者とならせて頂きたい、こんなことをベットで黙想していたら、 涙が流れてきた。「主よ、不実で間に合わぬ僕を憐れんで下さい。他人を教えて自らを教えぬ 罪から守って下さい。」
有馬師が部屋に戻ってきた。彼はボーイに頼んでポットに熱湯を運ばせてくれた。私は持参
のインスタント汁を作り、飲んだが実に美味しかった。
また彼はピラミッドに行けなかった私に絵はがきセットを買ってきてくれた。彼の配慮に大き
な慰めを感じた。夕食もほんの一口、依然として食欲がなく、早めに寝ることにした。 ![]() |