「同労者」第21号(2001年6月)
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![]() 信仰良書
新生ではないもの
さて、新生とは違うものについてお話しましょう。まず新生とは教会へ行く事ではありません。
私はほとんど会う人ごとにその人がクリスチャンかどうか尋ねますが、こういう答えが返ってき ます。「勿論私はクリスチャンです。少なくとも私はそう思っています。毎週日曜日に教会に通っ ていますから」。でもそれは新生とは違います。またこう言う人々もいます。「私は正しい事を行 うように心がけています。私はクリスチャンではありませんか。これは新生ではないのでしょう か」。違います。それが新生と何の関係があるでしょう。さらに別の部類の人々、すなわち心を 入れ替えてやり直した人々も自分が新生したと思っています。しかしそれも違います。新たな 決意といったものも新生ではありません。
洗礼を受けることもこの点で有効ではありません。けれどもこう言う人もいるでしょう。「何故
ですか。私は洗礼を受けていますし、その時に新しく生まれました」。彼らは洗礼によって教会 員になったので、洗礼によって神の国の一員にもなったと信じているのです。が、それは全く不 可能です。洗礼を受けて教会員にはなれるでしょう。しかしそれで神の子にはなれません。洗 礼はその役割において良いものです。決してそれを否定するわけではありません。しかし洗礼 を新生の役割に置き換えるとするなら、それはひどい誤りです。人は洗礼で神の国へ入ること は出来ません。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」この聖句を 読んで、なお望みを他のところに、他の拠り所に置く人がいるのなら、どうか神がそれを除き去 ってくださいますように。
他の部類の人々は「私は聖餐にあずかっています。欠かさずに聖礼典に参加しているので
す」と言います。幸いなことです。主はこれを行う度主の死を覚えなさいとおっしゃいました。し かしそれも新生ではありません。死からいのちへ移されることではないのです。主は明白に― ―どんな誤解の余地もないほど明白に――言われました。「御霊によって生まれなければ、神 の国にはいることができません」。聖礼典がそれと何の関係があるのでしょうか。教会に通うこ とが新しく生まれることと何の関係があるのでしょうか。
さらにもう一人はこう言います。「私は規則正しく祈りをしています」。しかしそれも御霊によっ
て生まれるのとは違うと言わなければなりません。
さてこれは私達の当面する非常に厳粛な問いかけです。すべての読者が熱心にそして誠実
に自問してみてくださることを願います。「私は新生しているのだろうか。御霊によって生まれて いるのだろうか。死からいのちへ移されているのだろうか」と。 ![]() |