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          「同労者」第22号(2001年7月)
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          祈りの小部屋 
           「ハンナは答えて言った。『いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。…私は
           
          主の前に心を注ぎだしていたのです。…』」(サムエルT1:15) 
           <D.L.ムーディー著、「勝利する祈り」、NCM2JAPAN、1994、p.123 から>
           
          
           もう何年も前のこと、私はある集会で、祈ってほしい人は全員、前に出てひざまづくか、前の
           
          席にすわってほしい、と呼びかけたことがあります。その人々の中に、一人の女性がいました。 私は彼女の様子を見て、クリスチャンに違いないと思いましたが、彼女は他の人々と一緒にひ ざまづきました。私は言いました。 
          「あなたはクリスチャンですね?」
           
          
          すると彼女はずっと以前からクリスチャンであると答えました。
           
          
          「招きの意味がわかりましたか?私はクリスチャンになりたい人だけを招いたのですが」
           
          
          それに答えた彼女の顔を、私は決して忘れないでしょう。
           
          
          「遠くに行ってしまった息子がいるのです。きょうはその息子の代わりになろう、そうすれば、神
           
          様が祝福してくださらいだろうかと思ったのです」 
           そのような母親がいることを、神に感謝します。 ・・後略
           
          
           ムーディーは、他の人のために信仰をもつこと、という表題でこの婦人のことを引用していま
           
          すが、私はこの婦人の心の重荷に着目したいのです。私たちを祈りに導くものは、心の重荷で す。 
           私にもこんなことがありました。私が救いの恵みに与ったのは、1962年5月ですがその8月
           
          に2日間の特別伝道会が開かれました。・・その前の年は、8月を31日間連続特伝したとのこ とでしたが・・初日、求道者は誰も来ませんでした。小島彬夫先生が「求道者が来ない」とひどく 嘆かれました。その先生のことばが私の心の重荷となりました。それでその夜、一睡もせず神 に求道者が与えられるよう祈り求めました。翌日の集会には、6人の求道者がやってきまし た。全部私が声をかけていた私の友人たちでした。神は私の祈りに応えてくださいました。 
           私たちを祈りに導くものは、心の重荷です。それは決して自分のことに限りません。私たちは
           
          心の重荷となるものを、それは家族のことであれ、教会の兄姉のことであれ、牧師のことであ れ、教会の外の親族や友人達のことであれ、まず神の前に持ち出そうではありませんか。親 切心から「こうすべきです」と言いやすいものですが、直接進言すべきか否かは大変難しい判 断を要します。しかし祈りは、たとえ私たちの判断が的はずれであったりしても、神がそれを最 善に変えて応えてくださいます。(文責:野澤)  |