「同労者」第22号(2001年7月)                        目次に戻る

特別寄稿

祖父母とイコン(私の信仰の歩み)
仙台聖泉キリスト教会   菊地 和子


 私はこの二月に八十才になった。日本人女性の平均寿命が八十三才前後とおぼえているの
で、私ももう何時お召しにあずかっても当たり前の年令になったと思う。その一方で、私の母が
亡くなったのが九十三才、主人の母は百二才、主人の父が九十九才七ヶ月と云う環境にあっ
たせいか、自分ではそれ程年をとったという自覚が薄い面もあるのである。それでも思考力も
判断力も年相応に衰えていることも確かである。その上私は両足が不自由だ。二十二年前に
股関節変形症で、両関節に人工骨頭が入っている。そのあと膝の怪我、骨盤の怪我と私は足
で悩まされて来た。
  − − − − − − − −
 私は三才で父を亡くした。父は大学を卒業すると間もなく旧満州に渡り、私は天津(テンチン)
で生まれたが、そのうち父は世界の人口の何分の一かが死んだというスペイン風邪にかかり、
病気が回復しないうちに日本に帰って死んだという。母は実家に帰り、学校の教師だったので
又復職してもとの学校に帰った。そのあと、私が五才の時私を祖父母に託して再婚した。
 祖父母はハリストス正教会(ギリシャ正教)の信者で、それもかなり熱心な信者であった。自
分の長男にヤコブ(稚客)と名(クリスチャンネームでない本名である)をつけて知り合いの人達
に変り者と云われた様な人である。
 我が家の生活は祖父母の信仰と教会の行事を中心に行われていた。食事の時には十字を
切って感謝の祈りをさせられたが、私はこれが恥ずかしくて学校のお弁当の時は決してしなか
った。日曜日は必ず家族で(祖父母、叔父、伯母と私)で教会に行った。一年の行事としては、
クリスマスと復活祭、聖霊降臨祭で、復活祭はクリスマスと同じ位盛んなお祝いがあった。その
他プロテスタントの教会と違う所は、わりにしばしば信者の家の誰かの命日に「パニヒダの祈
祷」というのがあって、子供達にはこれが楽しみであった。それはその家の方が皆の為にお花
やお菓子を用意して下さったからである。
 しかしうちがキリスト教ということで、私は肩身の狭い思いもした。例えば近くの神社のお祭り
の時は、参拝に行ってもおみこしについて行ってもいけなかった。近所のうちはどこでもお赤飯
を炊いたりお客様が来たり賑やかだった。それでも夜になると夜店につれていってもらって綿
飴や水風船を買ってもらった。
 教会堂はお茶の水のニコライ堂と大体同じ作りだということだが、中は広い礼拝堂とその奥
にもう一つ部屋があって、ここは神父の外は余り入れない様であった。そしてプロテスタントの
教会堂と違う所は窓は美しいステンドガラスで使徒の像や花の模様で美しく輝いていたし、壁
にはイコン(名前を知ったのはずっと後のことである)と云われる聖画がたくさん飾ってあった。
 入り口の上の屋根には横が三本あるギリシャ正教独特の十字架が立っていた。横三本のう
ち上が罪状札、下が足台であるが、横にすると中央がイエス様で、両側は一緒にはりつけにな
った罪人だとのことである。
 鐘は朝夕の外、日曜日には礼拝の終わった後にも鳴らされて美しく済んだ音をひびかせた。
この教会は仙台の空襲で焼けてしまったが、同じ所に今建っている建物は前より少し小型にな
ったように思う。
 私は今でもこの鐘の音を聞くと、幼年時代から少女時代まで通っていた頃の遠い昔を懐かし
む想いに満たされる。
 イコンの絵はすべて聖書に題材をとったものだが、子供の頃はその内容がよく分からず、イ
エス様とか、最後の晩餐とか、覚えているのはごく少数である。その中で今でもはっきり覚えて
いる絵がある。それは画面一杯に荒れ狂う波が描いてあって、波間には小さな舟が今にも沈
みそうに傾いていた。人々は恐怖の表情で両手を上げて救いを求めている。そのそばに黒く
長い衣服の人が大きく天を仰いで立っている。遠く海と空の間に一条の光が射している外は黒
と灰色だけで描かれたその絵は、大きさも一段と大きかったせいか、子供の私には何だか恐
ろしかった。それがガリラヤ湖の嵐で風と波も鎮め給うイエス様と知ったのは大分後のことで
ある。我が家にもイコンが飾ってあった。イエス様とか使徒達の絵でなかったろうか。天使の絵
もあった。
 祖父は私が十一才の時亡くなった。八十才位だったと思う。胃潰瘍ということだが、余り苦し
んでいたという記憶はない。いよいよ病気が悪化した時、祖父は「わたしの様な悪人が天国に
行けるだろうか」と言った。東北学院専門学部の学生であった叔父がお医者さんと神父様を呼
びに行った。神父様は祈祷が終わってから祖父に「あなたの罪はハリストスの十字架によって
すべて許されました」と告げると祖父はそのあと安らかに召されたとのことである。
 この話は祖母があとあとまでよく話していた。祖父は侍の末裔のせいか、真面目で頑固で厳
しかった。家長として権威を持ち、嘘とか虚飾には特に厳しかった。よく人の世話をし、教会で
も重んじられて、私も少し怖いと思いながら尊敬もしていたのである。その祖父が云った「わた
しの様な悪い人」とはどういうことであろう、何か悪いことでもしたのだろうかと子供の私の心に
少しばかりの失望と謎を残したのである。後年私が一人で神様の前に立たされた時、同じ苦し
みを味わうことになろうとは知るよしもなかったのである。
 祖母は寝る前に床の間の前に坐って長い祈りを捧げた。鴨居にはイエス様のイコンが掲げ
てあった。小学生の私は並んで頭を下げていたが祖母の祈りが長いので、冬などは折角コタ
ツで暖めてくれた寝巻も冷たくなるのでたいてい先に布団にもぐり込んだ。祖母は何をあんな
に長く祈っていたのだろうか。東京や朝鮮にいる息子や娘のことだったろうか。とにかく長かっ
た。この祖母も私が女学校二年の時亡くなった。
 叔父も学院を卒業して鉄道に就職し、そのあと転勤して仙台を離れたので、私と伯母は母の
家に引き取られた。それまでも母の所には自由に遊びに行っていたので特別な感情はなかっ
たが、東北学院の教師をしていた義父は喜んで迎えてくれた。その頃の私は女学校を出て四
年制の家政科に学んでいたて、そろそろ戦争の足音が聞こえ始めた頃である。
 終戦後、私は主人と結婚してプロテスタントの信仰に導かれた。その頃私は正教会やうちに
あった聖画がイコンというものであることを知った。
 イコンはイメージとか像を表すギリシャ語のエイコーン(ε'ικων)から来た聖書に題材を
とった聖画のことで主として旧教で用いられた。レンブラントとかミレーとかの芸術的な絵とは
区別されるとのことである。私は長い間あのイコンは荘厳な儀式と共に雰囲気をつくり出す為
に飾ってあるのだと思っていた。しかし祖母のことを考えている時に、私はあることに思い当た
った。祖母にとってあのたくさん身近にあったイコンは聖書ではなかったろうか。幕末生まれの
祖母は字が読めなかったのである。息子や娘から来た手紙は祖父や叔父に読んでもらってい
た。聖書を読めない祖母は、神父様の説教や、教会や家に飾ってあるイコンを通して心の中
に救い主ハリストスや天国のイメージをつくっていたのではないだろうか。とするとあの中世の
キリスト教文化、彫刻や絵画や音楽、そして壮大な教会堂はあの時代の信仰告白であると同
時に、教育の普及していない時代に、一般庶民の為、聖書の役目をしたのではないだろうか。
視覚聴覚を通し感情に訴えて救い主や神の国を示したのであろう。
 その教会も皇帝の保護を受け、権力と結びついてから、御多分に漏れず堕落していった。帝
政時代の祭司の法衣や聖書はたくさんの宝石で飾ってあった。(今もロシヤの博物館にあるそ
うです。)まさにアナーキストをして宗教はアヘンなりと言わしめた堕落ぶりである。私はギリシ
ャ正教の教義は全く知らないが、荘厳な儀式と聖堂とはその特徴であろう。
 今プロテスタントの信仰に導かれた私は、どんなに懐かしい祖父母の信仰であっても、ギリシ
ャ正教に帰ろうとは思わない。しかし私が少女時代まで過ごした祖父母の信仰生活は私の信
仰に大きな影響を与えたと思う。
 その後私を引き取ってくれた義父のヨブにも似た苦難の中から導かれた信仰の姿は私の心
を強く揺さぶった。義父のことは長くなるので又何時の日にか孫達の信仰の為に書き残してお
いてやりたいと思っている。
 人が信仰に導かれるには人それぞれの道があるであろう。ダマスコにおけるパウロの様に
一瞬にして回心する人もあれば長い時をかけて信仰を持つひともあるであろう。
 私はこの年になって自分の信仰を振り返って見ると、自分から熱心に信仰を求めたことはな
かった様に思う。心も頑なで、身も心も醜い私のことを神様はよくご存じであられたのであろう。
幼い時に父をお取り上げになり、私を祖父母の手に渡され、その後義父の所に預けられた。
そして私は気がついた時狭い門のこちら側に入れて頂いていたのである。
 私の様な取るに足らぬ人間を救うために神様は何という御配慮と忍耐をなされることであろ
うか。そしてその頂点が十字架である。
 私の人生にもたくさんの涙があった。しかしその涙は神様の愛にふれて拭われた思いであ
る。私が天に帰った時この世の苦しみや悩みもすべて喜びと感謝に変わるであろう。そのこと
を思って私の心は今から躍るのである。(完)


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