「同労者」第22号(2001年7月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記(その15) 
仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納


 最近、我家の三番目は大切な時期に入っている。誕生日が11月だからあと5ヶ月で3歳であ
る。三つ子の魂百までもと言われるように一日一日が成長であり、親にとっては自覚を持って
しつけに臨む重要な時である。男親も忙しい時ではあるが取り戻す事の出来ない重大な時とし
て母親だけに任してはおけない。特に我家の子供は親の血、いやおじいさん(山本光明)の血、
はたまたヒイおじいさん(山本岩次郎)のそれを受け継いだか自我が強い。自分の思うようにな
らないとお姉ちゃんを泣かせてもやり通す。最近は、手加減してやっている小学2年のお兄ち
ゃんの困ることをわざとして、たまりかねて強く出た彼が逆に怒られるのを横目で見て喜んでい
る。こちらもそんな事情を知りつつも兄弟それぞれの成長の糧と考え機会を捕らえ取り組ませ
ている。そんな我家の子供達だから常に人格同士のぶつかり合いや譲り合いがなされている
が、時としてわざわざ子供を追い詰めて強く干渉したり価値観を強要したりする必要を感じる。
それは子供が賢くなって親のご機嫌を上手に伺ったり、俗に言う「いい子」になったりすることを
覚えるからである。他にやることが多い今の時代、子供がいい子ならそれに越したことは無い
ように思うかもしれないが、訓練やしつけを怠れば必ず不足した部分に問題が生じる。仮にそ
うならなかったとしてもこれからの時代、何が起こるかわからないしいよいよ競争が激しくなる
時代である。器を大きくしておくのに越したことはない。環境を整えてあげてもいつまでもそれを
やり続けることは出来ない。逆にそれが整わないと生きていけない人格を造るよりもどんな中
でも生き抜いていける強い人格を訓練する方が本当の親の愛である。教会も同じ事が言え
る。真に神の前に成長した大人の信仰者を教会は育成しなければならない。そのために教会
は環境を整えるのではなく、信者一人一人の戦いや困難、ジレンマや矛盾をあえて強要しなが
ら、しかし豊かな神の助けと隣人としてのそれぞれが共に信じ助け合っていくことが重要であ
る。神は出エジプトの時からイスラエルにレビ人を置いた。彼らはイスラエルの神、主に仕える
部族として聖別された。彼らには、カナンで土地が与えられず自ら耕したり、また戦い取ったり
することは許されなかった。イスラエルの他の部族が与えられた糧の中から十分の一を神に
かえす事によって養われたのである。各部族に散らされたレビ人は神の教えをその所で解き
明かしたり強いたりした。勿論、妥協するレビ人もいただろうがどんなことがあっても神の律法
に対して厳粛に敬虔にそして真摯に仕える事を心がけた。それが彼らの仕事だったのである。
イスラエルのほかの部族は彼らに神に仕える事を委ね、しかしその必要を充分に分け与えな
がら自らも神に仕え、現実の生活や敵との戦いを両立させていたのである。糧が豊かに与えら
れている時はいいが、飢饉や敵の攻撃、疫病などで大きな打撃を受けた時、そばにいるレビ
人に対してどのような処遇をするかによってイスラエルは神に試され続けてきたのである。苦し
みのあまり彼らを蔑ろにすれば神の声はレビ人を通して届かず、すなわちそれは神への信頼
と忠誠を失なわせなお一層悪い方へと導かれてしまう。神の哀れみによって不信仰と不従順
は赦され回復はするが、自ら露呈してしまった性根のもろさや汚れは悲しみと情けなさとして個
人の心に深く残るものである。サウル王が回復を許されない所まで落ちてしまったのは彼の自
己嫌悪がそれらによって極まってしまったからであるように思う。
 サムエル記の話をしなければならない。ダビデが逃げたペリシテ人の地は、彼自身の安全と
いう観点から見ればこの上ないところであるが、彼の未来の王としての立場を考えると大変危
険な所であった。今がなければ未来もへったくれもないと言ってしまえばその通りだが、そう言
って今まで私達は大切な聖域を敵の手によって多く削り取られて来た。サムエル記Tの29章
でペリシテはイスラエルと戦う為に全軍をアフェクに集結した。その軍の中にダビデはいた。彼
を見込んでかくまってくれたペリシテ都市国家の一つガテ王アキシュの用心棒として共に参戦
したのである。神に油注がれた者としてチャンスがありながら自らの手をかけなかった王サウ
ル。どんな情況下でも助けの手を差し伸べ続けた親友ヨナタン。いつかは自らの指揮のもと共
にイスラエルの神、主の命で戦うであろうイスラエル軍。それらを敵に回して戦うことは不本意
どころではなく彼のここまでの困難と忍耐の生涯を無意味なものにしてしまうものであった。重
くのしかかるどうすることも出来ない現状に後悔と自責の念、どうしてこうなってしまったのだろ
うと言う自問自答はダビデの呼吸を困難にした。それで終わるかそこから神の助けを祈るかが
分かれ目である。ダビデがどうだったかは聖書に直接記されていないが、彼が祈ったであろう
からこそ神の豊かな干渉は、ダビデにいかに神が真実な方であり信頼するに足るべき方であ
るかを明らかに示した。
ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人は何者ですか。」アキシュはペリシテ人の首長
たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、
私のところにいて、彼が私のところに落ちのびて来て以来、今日まで、私は彼に何のあやまち
も見つけなかった。」しかし、ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人
の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たち
といっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。
この男は、どんなことをして、主君の好意を得ようとするで 
しょうか。ここにいる人々の首を使わないでしょうか。この男は、みなが踊りながら、『サウルは
千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたダビデではありませんか。」(サムエル記
T 29・3―5)と言うことになりこの危機的状態に助けの手が延べられた。これだけなら偶然で
片付けたくなるがしかし、続きがある。「ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみる
と、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを
火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分
たちの所に連れて去った。」(同30・1―2) この問題の結果は聖書に記されている。ダビデたち
はアマレク人を追い、無事に自分達の家族を助け出すことが出来たのである。もし、ペリシテ
人アキシュと共に戦っていたら、未来どころか愛する家族も失って消え去るしかないダビデが
残ったであろう。この一連のダビデの試練は、勿論悪魔の策略であり恐ろしい魔の手ではある
がどれほどダビデの器を大きくしたことであろう。目に見えないし触ることも、現実に声を聞くこ
とも出来ない神をしかし彼は一層確かなものとして手に入れたのである。私達は整った環境を
主に願うのではなく神ご自身を豊かに現して下さる訓練を通して強くせられることを願わなくて
はならない。未来の使命のために。


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