「同労者」第22号(2001年7月)                         目次に戻る 

旅行記

― 聖地旅行見聞記 (4) ―

森聖泉キリスト教会  牧師 秋山 光雄

聖地旅行日程    1986年11月14日〜11月25日 (13日間)
日/曜日 出発地−到着地 主な訪問・見学地
17/月 カイロ・シナイ(エルサランホテル) 出エジプトの足跡
スエズ運河、メラの泉、レピデム、サンタカテリーナ修道院


11月17日(月)
 かなり元気も回復して朝を迎えた。朝食も軽く口にしたが、この朝私を気づかって岡山師が
梅干しをくれた。10個近く入っていたが全部くれた。彼の好意は大変嬉しかったが事実この梅
干しのお陰で急に元氣づくのを実感した。みな、よく研究して必要な物を持参してきたものだ。
朝食後ちょっと元氣が出たので外に出て街角の交通渋滞を見ていたら下川師がビデオを肩に
「先生、気分はいかがですか」とカメラを向けた。山崎夫妻も仲良く散歩中だった。信仰者は誰
でも共通の香りを持つが、この山崎夫妻もクリスチャンらしさの漂う素晴らしい夫婦とみた。殊
に奥さんは品の良い方と見受けた。
 8時30分 バスはホテルを出発。カイロの市街地は朝のラッシュ時なのか大変な混み方であ
る。街頭で本を並べて売る人、誰が導くのかロバの大集団行進(?)、クラクションの鳴らしあ
いの車と車、相変わらず雑然とした街の風景の中で、傑作を見つけた。満員のぼろバス(そう
言えばカイロの車は大部分が古臭く、どこかがへこんでいる)がのろのろ走っていた。ところが
後輪あたりから何やら火花が散っている。後ろに続いた乗用車の運転手が大声でバスの運転
手にその事を伝えている。とバスの運ちゃんは「わかった、わかった」と言わんばかりに手を振
って応えてはいるがそのまま走り続けている。徐行中のバスから2、3人の男が飛び降りて走
って、その前を走るバスに飛び乗ろうとしている。「こんな危ないバごめんだ。あっちのバスに
乗り替えよう」とでも口々に叫んでいるらしい。これもカイロでみた変わった風景だった。
 河谷氏のガイドが本格的になってきた。今までスイスでは現地のガイドが、カイロでも現地在
住の日本人女性ガイドが務めた。しかし今朝からは河谷氏の番となった。彼のガイドは一流
だ。こんな人に恵まれた事は大きな祝福だ。旅行を価値あるものにするかしないかの鍵はガイ
ドにある。私は事前にガイド氏の録音計画をしてきたが、要所要所のみのつもりで90分テープ
3本しか持って来なかった。しかし河谷氏のガイドを聞いているうちに、これは全部取らなくては
惜しいと思い全録音に切り換えたものだ。「エジプトでは女性を美しく飾るらしい、それは嫁に
出す時高く儲ける事ができるためらしい」「車のスピード制限はドライバー自身の判断に任され
ている」こんなことも聞かされた。のんきな事だ。
 カイロ市街地を抜けると延々と続く砂漠である。エジプトの英雄サダト大統領のモニュメントや
軍の基地などのある一本道をスエズに向けて走り続ける。右も左も砂漠の荒涼たる原野だ。
草、殊に木は殆どなく唯々この一本道を行き交う車のみ(それも極めて希に)が「動く物」なの
である。途中、道の真ん中にロバが二頭立ち止まっている。車が近づいても逃げようともしな
い。
 車中が暑くなり薄着になる。何度ぐらいあるのだろうか?河谷氏はエジプトにまつわる様々な
話をしてくれた。「ピラミッドも王が奴隷を酷使して造ったと言われるが、それだけではなく王は
民の代理者のごとく見なされ王の甦りと共に自分たちも甦るであろうと言う信仰に基づいてい
た点もある。ナイル河を生命の河としていたエジプト人にとって農閑期はピラミッド作りに精魂
を傾けた。そこに生命のはけ口を置いた。そうでなければ幾ら王の権力と言ってもあれ程の見
事な石造りは出来なかったであろう。エジプトはまた甦りの地を予表している。ヨセフはエジプト
で甦り、イスラエルもエジプト(死の地)から甦った。主イエスもエジプトに逃れ其処から生命を
保たれて帰ってきた。エジプトは生命を匿い、保ち、育て、甦らせる地としての性格を持つ。エ
ジプト人はピラミッドをナイルの西側に造ったが彼らの墓も西側に置かれた。古くからエジプト
人は太陽の舟に乗って甦る信仰を持っており、ナイルの西側に葬られ東の太陽の舟に甦るこ
とを待ち望んだのである。私も長い間、日本にいたので暫くぶりのエジプトでエジプトの水を飲
んだら少しお腹の調子をこわし酒井さんに薬を頂いて飲んだが、出エジプトをして私の健康も
甦らせて頂きたいと思っています。」と。
(そう言えば私も同じだった。)
 砂漠の一本道ではエジプト軍の簡単な検問があった。そこはミグドル(出14章)でスエズ運
河トンネルの手前だった。トンネルは僅か2分足らずで通過、そこを抜けると程なく右折して運
河添いを南下する。地図をみても頷ける行程だ。運転手は厚意で右折して運河近くまで我々を
案内してくれた。みなそれぞれ運河をバックに写真を撮った。


筆者、スエズ運河を背景に


対岸にはビルと思われる建物の町か、工場地帯が見える。近くの鉄屑を片づけている現地人
に近寄って宮内師が「一緒にカメラに入ってくれ」と話し肩を組んで写真を撮って貰っていた。
そのそばには日立製作所と記された段ボール箱が散乱しており、ここにも日本製品の跡が認
められた。世界の隅々に日本の刻印があることに複雑な思いをさせられた。


シュルの荒野
(水道管も延々と続く)

 次ぎに立ち寄ったのが聖書で有名なメラの泉(出15章)である。シュルの荒野を南下し続
け、此処に辿り着くと何と今まで無かった「なつめやし」が群生し、近くにはベドウィン(遊牧民)
の小屋が散在している、正しく砂漠の中のオアシスの感じである。荒野を旅したイスラエルが
漸く得た水は苦くて飲めなかった。モーセは一本の木の枝を投げ込んだところ、その水は甘く
なったという歴史の場所である。最近は枯れてしまったが、此処に泉があったとされる窪地を
囲んで河谷氏のガイドを承った。
そして此処でお昼のお弁当を頂いた。パンと卵、ジュース、つけもの。中でもつけものには助か
った。とても辛いものだったが私の口には良く合った。パンの量も多く殆ど食べ切った人はいな
かったようだ。



(バスの車窓からみた)メラのオアシス



メラ、モーセの泉跡

遊牧民の小屋も近くにあり山羊も数頭いるし子供たちも遠くからこちらを見ているので誰かが
「あの人たちにパンをあげよう」と集め始めると河谷氏は言った。「与えてはいけない。それは
彼らの自尊心を傷つける。一カ所に纏めて置いて置けば後から彼らが拾いにくる」――果たせ
るかな、バスが動き出すとそれを待っていたかのように大人も子供も山羊までも一斉に駆け寄
って来た。私たち一同は車の中で今更のように「ほうー」と頷き人助けにも配慮が必要な事を
思い知らされたことである。
 延々と砂漠の一本道は果てしなく続く。その道に添って太い水道管がまた延々と延びてい
る。以前は考えられなかった"砂漠を沃野とする開拓作業の一つだ"という。「荒野をサフラン
の花咲く所とする」(イザヤ35:1)聖書の予言が今や着々と進められている。時折ポツーンと見え
る遊牧民の粗末な小屋の群の中でひときわ目を引くのがモスク(回教寺院)の鉄筋の立派な
家である。モスクは彼らにとって公会堂であり、憩いの家であり祈りと学びの家であると言う。
一体誰が建て、維持しているのだろうか?ふとそんな考えが過ぎるのも教会を建て維持管理
に苦労する島国日本の貧しい牧師である私の本音だろうか。遊牧民はおよそ4万人ぐらい居
ると言う。この砂漠地帯、全く何もない。もしこの道と往来する車(それも極めて少ないが)がな
ければどんな風景になり、どんな生活になるのだろうか。その糧はどこから得るのだろうか。7
月ともなれば気温も50度を越すと言う、こんな所で過酷な生活を生きる人達ど根性を思う。そ
んな思いをよそに茶色の砂漠と真っ青な海と空がどこまでも続く。




メラを後に出発



砂漠と紅海と空

 (この日の記、来月号につづく)



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