「同労者」第23号(2001年8月)                        目次に戻る

証詞

救いの証し
荒川聖泉キリスト教会   牧師 永岡 啓


 クリスチャンである両親の下に私は生まれ、気が付いた時には教会に通っていました。そし
て小学3年生の時に、教会学校の先生に勧められて洗礼を受けました。しかし、「イエス・キリ
ストがどういうお方か」、「自分がどういう存在であるか」、そして「イエス・キリストが私に対して
何をして下さったのか」、そのようなことを当時の私はほとんど理解していませんでした。死と地
獄を恐れていたので、洗礼を受けることにしたのです。
 しかし、受洗してから間もなくして、先ず教会が嫌いになりました。その次に、嫌いな教会が信
仰する聖書に疑いを持つようになり、その聖書に記されているイエス・キリストに対して無関心
になっていきました。教会の集会には出席し続けていましたが、神に対して反感を抱いていた
私は人間の内に救いを求め、次第にヒューマニズムに基づいたカウンセリングに、人間の問
題である虚しさや孤独、死などの解決を求めるようになりました。そして大学院に進んで、カウ
ンセリングの学びを始めました。しかし、問題の解決を求めて人間の心を学べば学ぶほど、そ
の弱さ、虚しさ、自己中心性に対して目が開かれていき、自分自身は勿論のこと、他人にも自
分を救うことは不可能であることが分かってきました。自分自身を始めとする人間の罪深さと
はかな儚さに、私は絶望しました。
 同じ頃に、人間の心の探求と平行して、私はキリスト教の基本を学び始めていました。聖書
をほとんど読んだこともないのに、ただ生まれた時から教会の集いに出席していたというだけ
で、私はキリスト教を知っているつもりでいました。しかし、学べば学ぶほど、自分が理解してい
るキリスト教と、聖書に記されているそれとが違うものであることに気が付き始めました。特に、
神を人間より上ではあっても有限であると考えていた私にとって、無限の力をもって万物を創
造し所有されている神としてのイエス・キリストとの出遭いは衝撃であり、自分の力で生きてい
ると考えていた私は、全てを与えられた創造者である神の前に、被造物としてひざまずかざる
をえなくなりました。
 そしてある日、「キリストは、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬
られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・・」(コリントT15:3後半〜4)と聖
書に記されている、唯一の赦しと甦りの希望であるイエス・キリストが、私の心に浮かんできま
した。希望をどこにも見出せずにいた私は、溺れるものがわらをもつかむような心境で、この
救い主にすがりつきました。このような私を、主はさげすむことも拒むこともなく、自らをへりくだ
らせて受け入れ、救って下さったのです。


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